Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1501~1520年

西 暦 和 暦 事 項
1501 文亀1 1 11 遠敷郡大杉関四分一について,新代官が年中21貫文で請負うことを願う[(2)朽木家-34].
1501 文亀1 5 25 粟屋親栄,三条西実隆を初めて訪ねる[実隆公記,再昌草].
1501 文亀1 9 13 朝倉氏(郡司景豊か),敦賀郡川舟中に塩・四十物(合物)の公事銭を定める[(8)道川-1].
1502 文亀2 4 2 飯川氏と結んで小浜月充を未進していた武田元信が,催促に応じて納入する[実隆公記].
1502 文亀2 5 6 内裏料所遠敷郡吉田荘・三宅荘,武田氏の徴する即位要脚段銭の免除を求める[実隆公記].
1502 文亀2 6 武田氏の段銭徴収に反対して国衆・百姓が小浜を攻め,武田中務大輔・同子弥五郎を討ち取る[実隆公記].
1502 文亀2 11 28 朝倉貞景,即位段銭を納入したものの,代始大奉幣米納入が遅延したため,幕府の催促を受ける[(2)土御門家-14].
1502 文亀2 11 百姓三郎左衛門,敦賀郡内の田地4段を永代売却し,この地は「年紀の徳政」の時にも対象外であると記す[(8)永建寺-10].
1502 文亀2 12 三方郡久々子浦の主張により,早瀬浦が内海に網を立てることが禁止される[(8)早瀬区有-2].
1502 文亀2 この年武田元信が仏国寺を創建する[(9)仏国寺-5].
1503 文亀3 4 敦賀郡司朝倉景豊,貞景に対し謀叛をおこし,敦賀で討たれる[(2)八坂神社-24].
1503 文亀3 11 3 敦賀郡司朝倉教景,先郡司の裁決を守り川舟の向買に他国の者が直商売することを禁止[(8)道川-2].
1503 文亀3 12 30 朝倉貞景,三輪藤兵衛尉に今立郡服荘内上坂弥三郎跡・所々沽却散在地を給与[(2)松雲公-14].
1504 永正1 (3) 8 朝倉貞景,弾正左衛門尉に任官される[宣胤卿記].
1504 永正1 4 21 朝倉貞景が1,000余貫を進上し,京都室町第で松拍子が催される[宣胤卿記].
1504 永正1 7 朝倉景豊と結んでいた朝倉景総(元景)らの牢人衆が,加賀から坂井郡内へ攻め入る[後法興院記,(4)龍澤寺-41].
1504 永正1 9 28 伏見宮家領遠敷郡松永荘の代官職に,粟屋親栄が補任される[実隆公記].
1504 永正1 12 9 後柏原天皇,内裏料所吉田郡河合荘の年貢増加を朝倉貞景に願い,子昭の四幅一対の唐絵を贈る[宣胤卿記].
1504 永正1 この年遠敷郡本境寺が創建される[本境寺縁起].
1505 永正2 2 16 若狭守護武田元信,永井国基に不義ありとして国基の国衙符所給地を没収し,粟屋賢行に与える[(2)白井家-4].
1506 永正3 4 22 武田元信,大飯郡中山寺に戦勝を祈願する[(9)中山寺-19].
1506 永正3 7 13 越前で一向衆・甲斐氏牢人が土一揆として蜂起(永正の一向一揆)[宣胤卿記].
1506 永正3 7 20 気比社が焼失する[気比宮社伝旧記].
1506 永正3 7 越前一揆に加賀・越中・能登衆が加わり大軍となり,17日より26日まで坂井郡豊原寺付近で朝倉軍と戦う[当国御陳之次第].
1506 永正3 8 6 越前・加賀一揆軍と朝倉軍,九頭竜川をはさんで決戦.一揆軍が敗れる[当国御陳之次第].
1506 永正3 8 16 加賀波佐谷松岡寺の内衆下間照賢,九頭竜川辺で討死[川那部系図].
1506 永正3 9 24 武田軍,丹後宮津城を攻略[(2)白井家-5].
1506 永正3 10 9 敦賀郡司朝倉教景,西福寺住持の在国のときは西福寺の門前中方・下部10人の所役を免除[(8)西福寺-158].
1506 永正3 12 9 小浜の絹屋主計,伯耆国商人の国屋又四郎への支払に宛てる割符の保証人となり,彦次郎を文書盗人として訴える[蜷川家文書].
1506 永正3 12 22 朝倉貞景,甘露寺元長を通じて土佐光信に洛中の屏風絵を描かせる[実隆公記].
1507 永正4 2 加賀一向一揆の越前侵入のさいの軍功により,坂井郡豊原寺明王院に対し将軍御内書が発給される[御内書案].
1507 永正4 4 13 細川澄元が若狭に下向する[宣胤卿記].
1507 永正4 4 27 武田元信,細川政元らの支援を得て丹後に出兵[多聞院日記].
1507 永正4 7 15 一向一揆勢が大野郡に侵入し朝倉軍と戦う[(7)小嶋吉右衛門-2].
1507 永正4 8 29 加賀の一揆勢が越前に侵入するが,帝釈堂の合戦で敗れる[当国御陳之次第].
1507 永正4 12 16 永平寺,前関白一条冬良の斡旋で「本朝曹洞第一道場」の勅額を得る[宣胤卿記].
1508 永正5 11 2 朝倉貞景,南条郡河野・今泉両浦と山内の馬借中に直買停止を保証[(6)西野次郎兵衛-15].
1508 永正5 11 16 斯波義敏が死去する[実隆公記].
1508 永正5 この年朝倉孝景,飛鳥井雅康から「宋世蹴鞠伝書」を伝受.
1509 永正6 2 4 三条西実隆,後柏原天皇直筆の源氏詞1冊を朝倉貞景の妻に贈る[実隆公記].
1509 永正6 4 永平寺,僧の出仕・入院,門前の行者・百姓・番匠などについて定める[(4)永平寺-12].
1509 永正6 6 23 五山文学僧の月舟寿桂,安居弘祥寺に入寺する[実隆公記,月舟和尚語録].
1509 永正6 8 21 足羽郡深嶽寺紹越,同寺において一休宗純の三十三回忌を行い,朝倉貞景も出席[(2)真珠庵-52].
1509 永正6 8 27 越前の香菊大夫,禁中で石山勧進のため二人舞を舞う[実隆公記].
1509 永正6 (8) 2 禁中で二人舞が上演され,人々群をなす[実隆公記].
1510 永正7 4 14 加賀・越前両国の一向一揆蜂起を鎮めたことにより,朝倉貞景が幕府から太刀を授けられる[御内書案].
1510 永正7 11 26 朝倉氏,敦賀の庄の橋修造料として,永厳寺から寺庵十分一役を徴する[永厳寺文書].
1510 永正7 12 18 朝倉貞景,三国滝谷寺の買得地安堵目録が永正3年一揆により焼失したため改めて安堵[(4)滝谷寺-5].
1511 永正8 2 2 武田元信,三条西実隆に「新三十六人歌合」の書写を依頼[実隆公記].
1511 永正8 5 7 越前の人々が,三条西実隆に連歌の合点(批評)を求める[実隆公記].
1511 永正8 5 18 武田元信,三条西実隆から「狭衣物語」を借用[実隆公記].
1511 永正8 6 25 朝倉貞景,三条西実隆から「栄花物語」3冊を借用[実隆公記].
1511 永正8 10 11 朝倉氏,三条西実隆から「栄花物語」7冊を借用[実隆公記].
1511 永正8 10 14 三条西実隆,越前に「源氏物語」を遣わす[実隆公記].
1511 永正8 11 6 若狭武田氏家臣の久村信濃守,三条西実隆に鮭・鱈・山葵を贈る[実隆公記].
1511 永正8 11 20 大野郡平泉寺の住僧威徳房,武蔵国御嶽社修造棟札を書く[御嶽神社文書].
1512 永正9 3 25 朝倉貞景が死去し(40歳),子息孝景が継ぐ[実隆公記].
1512 永正9 10 7 甘露寺元長が越前に赴く[実隆公記].
1513 永正10 8 12 笛の名人彦兵衛,朝倉景職に笛伝書「遊舞集」を相伝する[遊舞集].
1513 永正10 8 丹生郡大谷寺修理の勧進帳が作成される[(5)越知神社-32].
1513 永正10 11 11 敦賀郡司朝倉教景,西福寺に対し,陣僧・寺領の名代・寺役免除などの条々を定める[(8)西福寺-173].
1513 永正10 12 7 幕府,禁裏料所遠敷郡上吉田村の直務代官に抵抗して百姓らが指出に応じないで逃散したため,還住を命じる[守光公記].
1513 永正10 12 26 高田派専修寺住持職につき,綸旨により応真を退け真智を任じる(この後,応真支持派との紛争が続く)[(5)法雲寺-7].
1514 永正11 2 17 朝倉貞景造営の京都清水寺法華堂の落慶供養が行われる[公條公記].
1514 永正11 5 10 南条郡今泉浦刀祢の中屋常慶,自らが開基となった寺を中心に子孫たちが結束し,中屋の家を維持せよとの置文を遺す[(6)西野次郎兵衛-17].
1514 永正11 5 27 儒学者の高辻章長が越前から京都に帰る[公卿補任].
1514 永正11 8 22 武田信親が死去する[諸家系図纂].
1514 永正11 12 13 京都本国寺日遵,葛西重高ら10人を檀方評定衆とする小浜長源寺の運営や懲罰についての規式を保証[(9)長源寺-11].
1515 永正12 2 23 足羽郡光照寺盛舜の上人号が執奏される[守光公記].
1515 永正12 (2) ―朝倉氏が惣国道橋普請を命じたことにつき,南条郡河野・今泉両浦が争う[(6)西野次郎兵衛-18].
1515 永正12 8 21 越前出身の前建仁寺住持大成が越前善応寺で死去する[東山歴代].
1515 永正12 9 8 敦賀郡気比社造営の立柱式[中原康貞記,気比宮社伝旧記].
1515 永正12 10 小浜武田元信邸の連歌会に連歌師宗長が参加[那智篭].
1515 永正12 この年武田氏京都雑掌の寺井賢仲が死去する[為広詠草].
1516 永正13 4 27 三方郡小松網場につき,御賀尾浦と常神浦が相論[(8)大音正和-198].
1516 永正13 6 5 朝倉氏,将軍足利義稙より白傘袋と毛氈鞍覆を免ぜられる[朝倉系図].
1516 永正13 7 敦賀郡気比社の遷宮が行われる[華頂要略].
1516 永正13 この年武田氏京都雑掌寺井賢仲の百日忌に宗長が追善歌を勧進し,諸人が品経歌を贈る[為広詠草].
1517 永正14 4 1 武田氏,若狭国留守所下文をもって三方郡寺庵・社家に要米を賦課し,15日までに納入を命じる[(8)大音正和-201].
1517 永正14 6 2 丹後国守護代延永春信の軍が若狭に侵入し,大飯郡和田に着陣したことにより,将軍,朝倉孝景に対し武田元信への合力を命じる[御内書案].
1517 永正14 6 19 武田氏,今度の丹後出陣は特別であるとして,祈願所の遠敷郡明通寺にも陣僧1人の派遣を求める[(9)明通寺-109].
1517 永正14 9 22 武田軍,丹後竹野郡堤篭屋城を攻撃[(2)白井家-13].
1517 永正14 10 11 武田軍,丹後竹野郡吉沢城で合戦[(2)白井家-14].
1517 永正14 この年陸奥伊達稙宗の使者頤神軒存
が越前国府から大雪のなかを木ノ芽峠を越し,七里半越えを通り京都に向かう[伊達家文書].
1518 永正15 1 11 粟屋親家,遠敷郡諦応寺の買得所領を安堵[(9)諦応寺-2].
1518 永正15 1 29 今立郡水落の町衆の抵抗により遅延していた水落神社のおこない神事が執行される[(5)瓜生守邦-16].
1518 永正15 4 19 将軍の使者として伊勢貞陸が越前に下向し,加越国境封鎖の解除を朝倉氏に求める[宣胤卿記,御内書案].
1518 永正15 4 21 今立郡毫摂寺が仁和寺の門家となり,それを介して後柏原天皇の勅願寺となる[(6)毫摂寺-1].
1518 永正15 5 越前・加賀間の交通路の封鎖および国境での書状検閲が解除・停止される[宣胤卿記,(3)三崎玉雲-6].
1518 永正15 5 敦賀郡江良浦,浦内の公事分・免除分の棟数を注進[(8)刀根春次郎-3].
1518 永正15 7 3 朝倉孝景,祖父氏景の三十三年忌仏事のため建仁寺前住月舟寿桂を招く[月舟録].
1518 永正15 7 23 真宗高田派専修寺末の足羽郡聖徳寺真専ら,専修寺に対し御番・出仕・命令遵守などの6か条を誓約[(2)専修寺-3].
1518 永正15 8 10 斎藤利良,土岐政頼を擁して越前へ逃亡[宣胤卿記].
1518 永正15 9 9 月舟寿桂,越前善応寺住持となる[幻雲疏藁].
1518 永正15 12 13 丹生郡内紺屋方,府中奉行人より郡内で営業することを認められ,府中紺屋方に毎年200文を納入することと定められる[(5)山岸長-1].
1518 永正15 12 17 吉田郡河合荘年貢徴収のために,本願寺実如が協力する[宣胤卿記].
1519 永正16 4 16 足羽郡深岳寺開山で朝倉氏一族の祖心紹越が死去する[真珠酬恩両庵歴代世次].
1519 永正16 11 26 若狭守護武田元信が剃髪する[再昌草].
1519 永正16 12 12 三方郡郷市極楽寺の猿楽楽頭職が,気山彦九郎から倉弥二郎に売り渡される[(8)江村伊平治-6].
1520 永正17 3 12 武田氏家臣の久村宗家,三条西実隆に「古今集」の外題を求める[実隆公記].
1520 永正17 4 16 三条西実隆,武田氏家臣の粟屋元泰の求めにより「源氏物語」の奥歌を書き,また「源氏物語系図」を武田氏雑掌吉田氏のもとに遣わす[実隆公記].
1520 永正17 4 23 丹生郡織田寺千手院買得山地を開墾して堀田とし,「饗之事」神田としていた院中西地下衆が詫証文を提出[(5)劒神社-24].
1520 永正17 10 17 三方郡丹生浦と竹波浦の網場相論について,幕府裁判で丹生浦の勝訴となったことを武田元光が諒承する[(8)丹生区有-5~11].
1520 永正17 この年武田氏家臣の畑田左馬允,自作の20首の和歌の批評を三条西実隆に求める[再昌草].

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