Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1251~1300年

西 暦 和 暦 事 項
1251 建長3 3 若狭国御家人たちが,地頭若狭忠清による遠敷郡太良保内雲厳跡の押領を訴える[ノ-1].
1251 建長3 10 13 遠敷郡西津保地頭代が多烏浦刀祢を宮河保地頭の一味だとして乱妨したことにつき,六波羅探題が地頭代に弁明を求める[秦-7].
1252 建長4 10 28 賀茂社の訴えにより,幕府が遠敷郡多烏浦の漁猟についての妨げを停止する[(2)尊経閣文庫-6].
1253 建長5 8 28 道元が京都で死去する[建撕記].
1254 建長6 11 遠敷郡太良荘預所定宴が太良荘の検注を行い,検注目録を固める[教王護国寺文書,や-10,は-2].
1255 建長7 2 10 若狭国衙留守所の目代,一宮(若狭彦社)において恒例祭の詔戸(祝詞)を奏する[(9)若狭彦神社-1].
1255 建長7 2 14 永平寺2代孤雲懐奘,徹通義介に嗣法を許す[永平寺室中聞書].
1256 康元1 2 遠敷郡太良荘預所定宴が勧農帳を作成し,均等名を中心とする荘田編成を行う[教王護国寺文書,は-3].
1256 康元1 この年敦賀郡気比社が焼失する[(2)東山御文庫記録-11].
1257 正嘉1 1 25 若狭国税所代であった伊賀光宗(光西)が死去する[吾妻鏡].
1258 正嘉2 3 1 北条時広,越前守に任じられる[吾妻鏡].
1258 正嘉2 4 10 遠敷郡明通寺本堂,上棟[(9)明通寺-41].
1258 正嘉2 6 遠敷郡太良荘末武名について,菩提院行遍が宮河乗蓮(辻家仲)を同名名主職に補任[は-4].
1259 正元1 4 21 宮河乗蓮,遠敷郡太良荘末武名などを地蔵御前に譲与[む-2].
1259 正元1 4 27 越前国をもって日吉社造営を行うべしと宣下される[華頂要略].
1259 正元1 この年諸国に飢饉・疫病が続く[鎌倉年代記]./丹生郡山干飯保,越前の知行国主の四条隆親により,新立荘園停止の対象とされる[経俊卿記].
1260 文応1 3 2 三方郡御賀尾浦百姓を,辺津浜山山守職に補任[(8)大音正和-11].
1260 文応1 7 16 日蓮,「立正安国論」を北条時頼に提出する[安国論御勘由来].
1261 弘長1 この年寂円,大野郡木本郷銀杏峰の麓で坐禅する[(7)寳慶寺-3].
1262 弘長2 4 遠敷郡太良荘末武名について,前年同荘に宮河乗蓮が守護使を引き入れたことを中原氏女が訴え,末武名名主職に補任される[は-4].
1262 弘長2 11 28 親鸞が死去する[西本願寺本教行信証奥書].
1262 弘長2 この年三方郡前河荘地頭に高木浄西が補任される[(2)斉民要術紙背-2].
1263 弘長3 12 北条時宗が若狭国衙税所今富名の領主となり,伊賀光政がその代官となる[税所次第].
1264 文永1 4 12 幕府,領主による農時の百姓使役等を禁ずる[新編追加].
1265 文永2 5 18 気比社の再建のため,越前国内の国衙領・荘園に造営費を賦課せよとの宣旨が出される[(2)東山御文庫記録-11].
1265 文永2 9 5 遠敷郡明通寺が院主頼禅により再建され,本堂供養が行われる[(9)明通寺-41].
1265 文永2 11 若狭で国衙検注が行われ,国内荘園・国衙領の惣田数帳(大田文)が作成される[ユ-12].
1266 文永3 この年遠敷郡太良荘年貢186石余のうち,43石余が損毛となる[や-10].
1267 文永4 4 8 徹通義介,孤雲懐奘のあとを受けて永平寺三代となる[永平寺三祖行業記].
1267 文永4 12 6 気比社の再建がなり,遷宮日が定まる[(2)東山御文庫記録-11].
1268 文永5 2 27 幕府,御家人等にモンゴル来襲の警戒を命ずる[新式目].
1268 文永5 3 5 得宗北条時宗,執権となる[関東評定伝].
1269 文永6 1 遠敷郡西津荘内の汲部・多烏両浦の刀祢が,山々の境を確認する注文を作成[秦-11・12].
1269 文永6 4 遠敷郡太良荘預所定宴,地頭若狭定蓮(忠清)の大番雑事役反別賦課を訴える[な-16].
1270 文永7 3 24 遠敷郡多烏浦の刀祢秦守高,多烏浦開発の由緒を記す[秦-13].
1270 文永7 5 遠敷郡太良荘末武名の名主職補任を求めて,宮河乗蓮の娘の藤原氏女が夫とともに訴える[ぬ-6].
1270 文永7 7 20 丹生郡大谷寺の夜相撲行事が,刃傷・殺害のもととして禁止される[(5)越知神社-2].
1270 文永7 7 遠敷郡太良荘末武名相論に関して,同荘の百姓たちが同名を預けられたいとして仮名交じりの申状を提出[ぬ-7].
1270 文永7 10 13 遠敷郡明通寺の三重多宝塔,上棟[(9)明通寺-41].
1270 文永7 11 敦賀湊における年貢米運送についての問・綱丁・馬借の駄賃が知られる[延暦寺勧学講条々].
1270 文永7 12 28 遠敷郡多烏浦刀祢の秦守高,多烏浦開発の由緒を記し,同郡汲部浦による須那浦の押領を訴える[秦-16・17].
1271 文永8 この年得宗北条時宗が若狭守護となる[守護職次第].
1272 文永9 1 後嵯峨院処分状により,院の御願寺浄金剛院の新法華堂領として今立郡大屋荘が円満院円助法親王(後嵯峨院皇子)に与えられる[(2)伏見宮家-1].
1272 文永9 2 遠敷郡多烏浦の船「徳勝」に対し,国々津泊関々を煩いなく自由に通行しうる特権が得宗より認められ,旗章(過所船旗)が与えられる[秦-19].
1272 文永9 2 徹通義介が永平寺から退院[永平寺三祖行業記].
1272 文永9 7 26 遠敷郡西津荘得宗代官,公事負担の割合を多烏浦3分の1,汲部浦3分の2と定める[秦-20].
1272 文永9 11 3 若狭守護,若狭大田文の提出を守護代渋谷経重に命令[ア-25].
1273 文永10 2 20 若狭守護代渋谷経重,大田文の作成につき国衙在庁・御家人に注進を命じる[ア-25,フ-7].
1273 文永10 3 17 遠敷郡太良荘預所聖宴,勧心半名主に西念を補任[ゑ-3].
1273 文永10 8 1 遠敷郡西津荘得宗代官,はまち網は多烏・汲部両浦の百姓沙汰人の寄合により運営すべきことを定める[秦-23].
1273 文永10 12 5 遠敷郡汲部浦・多烏浦の人に狼藉を働いた坂井郡坂南地頭宮内三郎などに対し,六波羅探題が出頭を命じる[秦-24].
1274 文永11 2 遠敷郡太良荘預所聖宴の推挙により,末武名名主職に順良房快深が補任される[は-6].
1274 文永11 2 遠敷郡太良荘の前末武名主中原氏女の夫脇袋範継,快深を訴える[ル-11].
1274 文永11 10 20 元・高麗軍,筑前に上陸.夜大風おこり,元・高麗の船団漂没する(文永の役)[八幡愚童訓].
1275 建治1 5 越前御家人勘解由左衛門大夫跡,若狭御家人掃部蔵人跡,鳥羽左衛門入道跡,山西兵衛尉跡,および鎌倉中の本郷美作蔵人入道跡,伊賀式部入道跡,同隼人跡,在京の若狭兵衛入道跡などに,京都六条八幡新宮の造営用途が賦課される[六条八幡造営注文].
1275 建治1 11 遠敷郡太良荘百姓,預所代官静俊の非法を訴える[は-14].
1276 建治2 6 遠敷郡太良荘預所定宴の子の静俊と東山女房が,互いを排斥して争う[ゑ-155].
1276 建治2 6 若狭国御家人,モンゴル襲来に備えるべしとの幕府の命令を引き,中原氏女を支援する[メ-19].
1276 建治2 8 遠敷郡安賀荘公文職の名田をめぐり,鳥羽国茂とその母鳥羽尼心蓮・脇袋範継らが合戦[京-14].
1276 建治2 この年遠敷郡太良荘定米150石余のうち50石弱が損亡[れ-1].
1277 建治3 4 9 遠敷郡西津荘得宗代官,同荘由留木の飛魚網と須那浦のはまち網を多烏浦に与える[秦-25].
1277 建治3 7 4 有栖川殿領今立郡山本荘が,得宗北条時宗の所領となる[建治三年記,(2)円覚寺-2].
1277 建治3 7 遠敷郡太良荘末武名主中原氏女,一族の惣領鳥羽国茂と名田をめぐって争う[京-14].
1277 建治3 12 遠敷郡太良荘の預所定宴と中原氏女,地頭若狭定蓮に対して公文職・公文名の返還などを求めて幕府に訴える[ホ-5,ア-368].
1278 弘安1 2 3 遠敷郡国富荘について,預所・地頭間の所務中分が行われる[壬生家文書].
1278 弘安1 5 10 小槻重真・源守清に安堵されていた遠敷郡太良荘勧心名が東寺供僧により西念に与えられる[ア-311].
1278 弘安1 5 遠敷郡太良荘預所に改易された勧心名主小槻重真に連帯する名主5人が,安堵を求める「惣百姓申状」を提出する[イ-11,京-15].
1278 弘安1 12 遠敷郡西津荘得宗代官,「由つる木大網」について,同荘多烏・汲部両浦刀祢の「大網むらきミ職」を安堵[秦-26].
1278 弘安1 12 遠敷郡太良荘の勧心名名主職をめぐる相論が,西念・重真に対し半名宛補任することで決着[さ-3].
1278 弘安1 12 今立郡方上荘百姓が同荘政所に押し寄せ,目代を追い出す[勘仲記].
1278 弘安1 12 大野郡泉荘三か郷について,領家と地頭藤原長継が和与中分を行い,地頭の代銭請負となる[(2)一乗院-2].
1278 弘安1 この年寂円が大野郡宝慶寺を建立する[宝慶寺由緒記].
1279 弘安2 1 18 藤原助高,今立郡方上荘内般若寺境内における乱入や山林伐採を禁止[(5)安楽寺-1].
1279 弘安2 3 遠敷郡志積浦刀祢安倍延長ら,浦地頭への百姓3人分の月別魚・塩・和布・鮨・節料の負担額を注進[(9)安倍伊右衛門-8].
1279 弘安2 11 11 遠敷郡太良荘前預所定宴,収納の枡について弁明する[や-5].
1280 弘安3 8 24 孤雲懐奘が死去する[永平寺三祖行業記].
1280 弘安3 9 2 坂井郡長崎荘を興福寺光明院隆遍が知行すべきところ,四条隆行が偽って安堵されたとして,興福寺僧が隆行を藤原氏より放氏しようとする[中臣祐賢記].
1280 弘安3 10 25 坂井郡河口荘の絹綿上分の納入を守護所が停止したため,領主春日社の三方神人が現地に下る[中臣祐賢記].
1281 弘安4 (7) 1 江南軍を加えた元・高麗の軍船,大風雨により漂没する(弘安の役)[八幡愚童訓].
1282 弘安5 10 13 日蓮が死去する[日蓮聖人註画讃].
1283 弘安6 12 28 幕府,若狭をはじめ8か国の寺社で異国降伏の祈祷を行うよう命じる[な-24].
1283 弘安6 この年坂井郡坂北荘坪江郷で検注が行われる[河口荘綿両目等事].
1284 弘安7 5 幕府,諸国守護に一宮・国分寺の興行を命じる[新編追加].
1284 弘安7 10 17 遠敷郡の若狭一・二宮の12代祢宜牟久景継と妻が出家の儀式を行い,子息光景が13代の祢宜となる[(9)若狭彦神社-2].
1284 弘安7 12 23 遠敷郡多烏・汲部両浦で塩代米納入を廃し,もとのように代銭納とする[秦-27].
1284 弘安7 この年藤原氏女,中原氏女の死亡を知り,太良荘末武名の名主職補任を求め東寺に最後の訴えをする[む-152].
1285 弘安8 9 2 税所代伊賀光政の代官日下朝忠・沙弥定意,遠敷郡武成名・西郷内の田畠を如法料田として同郡神宮寺に寄進[(9)神宮寺-4].
1285 弘安8 9 遠敷郡太良荘地頭若狭忠兼,大番用途18貫文を反別に割り当て,百姓3人の身代を取ったとして訴えられる[な-29].
1285 弘安8 11 18 三方郡御賀尾浦の刀祢職分の年貢以下は,百姓等中の沙汰として,怠りなく勤めることを地頭が命じる[(8)大音正和-14].
1285 弘安8 11 有力御家人安達泰盛や越前守護の足利(吉良)満氏らが,平頼綱に殺される(霜月騒動)[保暦間記,鎌倉年代記].
1285 弘安8 この年若狭定蓮(忠清)が死去し,三方郡三方郷や遠敷郡犬丸名・栗田保などは若狭又太郎に,遠敷郡太良保など14か所の地頭職は若狭忠兼に与えられる[ユ-12など].
1286 弘安9 2 4 今立郡山本荘が,得宗北条貞時より造営料所として鎌倉円覚寺に寄進される[(2)円覚寺-2・3].
1286 弘安9 5 遠敷郡太良荘助国名をめぐる相論で,国安に助国名主職が与えられる[ヱ-42,ら-1].
1286 弘安9 6 遠敷郡太良荘の勧心・時沢・真利の三人百姓に,助国名主職が安堵される[ヱ-42,ら-1].
1286 弘安9 10 若狭で一宮と小浜八幡宮の造営用途が一国平均役として賦課される[ハ-4].
1287 弘安10 5 11 遠敷郡太良荘地頭若狭忠兼,国安を助国名主に補任するとともに,50人を率いて助国名下地を奪い,早田を刈り取る[ヱ-42].
1287 弘安10 11 丹生郡大谷寺において,寺務の評定・財物の管理・奉加に関する条々が定められる[(5)越知神社-4].
1287 弘安10 12 坂井郡河口荘内の十郷の田地を郷ごとに記した「河口荘田地引付」が作成される[河口荘田地引付].
1287 弘安10 この年徹通義介が吉田郡永平寺を退院し,加賀国の大乗寺に入寺[建撕記].
1288 正応1 1 若狭国衙税所領の遠敷郡谷田寺の僧重厳が,税所代工藤杲暁らが免田を没収したことを訴える[(9)谷田寺-1].
1288 正応1 3 若狭国衙在庁安倍氏が,税所領内の遠敷郡谷田寺敷地内での狩猟や狼藉を禁止[(9)谷田寺-2].
1288 正応1 4 21 坂井郡坂北荘坪江郷が,後深草上皇から春日社新三十講料所として興福寺に寄進される[勘仲記].
1288 正応1 5 13 幕府,若狭一宮の造営を命じる[ム-8].
1289 正応2 6 若狭一宮祢宜光景と税所又代官青柳光範,遠敷郡太良荘に数十人の使者を放ち入れ,一宮造営用途を苛責する[ア-32].
1289 正応2 7 今立郡方上荘の前下司が荘内に城郭を構えて,領主の摂関家の使者に抵抗[(2)東洋文庫-3].
1289 正応2 8 23 一遍が死去する[一遍上人絵伝].
1289 正応2 9 敦賀郡気比社の造営と神人刃傷事件について,同社社家が神輿を動かし朝廷に強訴する[吉続記].
1290 正応3 この年夏,時宗の他阿真教が越前に布教し,府中惣社に7日間参篭[遊行上人縁起絵].
1290 正応3 12 他阿真教,府中惣社で歳末別時念仏を行い,近郷を化導[遊行上人縁起絵].
1290 正応3 この年坂井郡称念寺が,他阿真教の化導により時宗に改宗する[(4)称念寺-4].
1291 正応4 2 13 遠敷郡多烏浦刀祢職相論につき,則友の主張が退けられ,先祖相伝に任せて権守守重に安堵される[秦-31].
1291 正応4 3 20 遠敷郡太良荘の源八男,公田下作を地頭方に売却しないと誓約[ゑ-8].
1291 正応4 3 丹生郡大谷寺,日野川以西の商人たちを同郡越知社の神人職に補任[(5)越知神社-5].
1291 正応4 3 大飯郡黒駒社神主職に先神主後家を補任[(8)大音正和-16].
1291 正応4 10 17 若狭国司,遠敷郡太良保における国衙検注を停止[こ-23].
1291 正応4 12 府中惣社に参篭した他阿真教,大野郡平泉寺衆徒の干渉を招き加賀に移る[遊行上人縁起絵].
1291 正応4 この年敦賀津料(敦賀津着岸升米)が以後6年間祇園社の修理料に充てられる[八坂神社記録].
1291 正応4 この年以降,天満宮祢宜職の改易を発端として,遠敷郡多烏・汲部両浦の間に紛争が生じる(1294年まで)[秦-29・30・33].
1292 正応5 10 13 得宗,異国降伏御祈を若狭の地頭・御家人・預所に命じる[リ-19].
1292 正応5 この年加賀大乗寺の瑩山紹瑾,吉田郡永平寺住持義演の許可を得て「仏祖正伝菩薩戒作法」を書写[仏祖正伝菩薩戒作法,洞谷記].
1293 永仁1 7 遠敷郡多烏浦人,天満社祢宜職・御堂(大福寺)・狩倉山についての汲部浦人の非法を訴える[秦-33].
1294 永仁2 4 遠敷郡太良荘助国名の帰属など同荘をめぐる諸懸案について,領家東寺の雑掌と地頭代官との間で和与が成立[ヒ-16].
1294 永仁2 6 遠敷郡明通寺寺僧が連署し,先住頼禅の寺領・寄進地・文書についての15か条の遺言を守ることを誓う[(9)明通寺-11].
1294 永仁2 10 三方郡織田荘の昨年検注をうけた2段の地を,下司などが荘内山西郷二十八所社に寄進[(8)園林寺-7].
1294 永仁2 この年法華宗の日像が越前・若狭で布教し,南条郡妙泰寺・敦賀妙顕寺・小浜妙興寺が創建される[本化別頭仏祖統紀].
1295 永仁3 12 三方郡倉見荘において実検が行われる[(8)大音正和-20].
1296 永仁4 3 遠敷郡多烏・汲部両浦の代表が,公事負担比率・山海利用・御堂・祢宜につき,鎌倉の得宗代官のもとで和与[秦-38].
1296 永仁4 6 坂井郡金津阿弥陀寺が奈良興福寺の直接の掌握下に置かれる[坪江上郷条々].
1297 永仁5 3 6 幕府,永仁の徳政令を発し,また越訴を禁ずる[京-48,新編追加].
1297 永仁5 3 24 吉田郡永平寺が,山門・方丈を残して全焼する[安楽山産福禅寺年代記].
1297 永仁5 7 11 大野郡小山荘について,地頭伊自良氏と領家奈良興福寺浄名院が和与中分し,地頭・領家各別に所務を行う[(2)一乗院-7・11].
1297 永仁5 12 2 三方郡御賀尾浦の地頭二階堂氏が,百姓の訴えていた桑・京上夫・能登浦狩厨について下知[(8)大音正和-22].
1298 永仁6 2 12 坂井郡金津に,大和西大寺の浄賢の差配により,春日社が坪江惣社新春日社として勧請される[河口荘綿両目等事].
1298 永仁6 4 敦賀津料および敦賀郡野坂荘年貢が,大和西大寺の供料に充てられる[西大寺田園目録].
1298 永仁6 10 17 得宗北条貞時,有栖川清浄寿院雑掌の訴えに対し,円覚寺造営中は今立郡山本荘を円覚寺領とする[(2)円覚寺-2].
1299 正安1 2 11 遠敷郡汲部浦の分大夫,出雲王尾津に渡すべき代米を地頭方に取られたため,山を売り船泉太郎で出雲に赴く[秦-39].
1299 正安1 6 5 遠敷郡太良荘百姓,地頭若狭忠兼の新儀の脇在家役公事・名内畠の押領・坂東夫徴発・農繁期中公事賦課を訴える[ヱ-19].
1299 正安1 この年若狭守護北条貞時,守護職を従父弟宗方に譲る[守護職次第].
1300 正安2 4 遠敷郡太良荘預所と百姓が争った入木入草・上葉畠・散使田・輿舁・公事催促使・預所田地耕作・花紙について領家が裁決[お-3].
1300 正安2 5 7 遠敷郡太良荘百姓の国友,太良荘を「打開」いた先祖以来の系譜を書き出し,自身の由緒を主張[な-49].
1300 正安2 7 三方郡小川浦内の辺津浜山を御家人倉見平六が押領していることを,山門が訴える[(8)大音正和-24].
1300 正安2 9 21 吉田郡河合荘沙汰人の光信・覚賀らが日吉社神人道円ら一類7人を殺害したとして,日吉社が六波羅探題に訴える[(2)荻野仲三郎-1].

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