Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1461~1480年

西 暦 和 暦 事 項
1461 寛正2 1 丹生郡大谷寺の衆徒・山伏が神田訴訟費用に困窮し,今後は所領収納分を等分することを取り決める[(5)越知神社-22].
1461 寛正2 4 15 武田氏被官と一色氏被官が舟荷物について相論する[政所賦銘引付].
1461 寛正2 6 遠敷郡今富荘,文安年間の地震ののち遠敷郡太良荘半済代官が敷設した埋樋により田地に損害ありと訴え,相論となる[ハ-326].
1461 寛正2 7 20 坂井郡河口荘百姓,長禄4年冬から寛正2年7月までの餓死人が9,268人,逃亡人が757人に達するとし,興福寺田楽頭役段銭の納入に抵抗[雑事記].
1461 寛正2 8 6 三方郡倉見荘における守護武田氏の違乱を,京都等持院が幕府に訴える[蔭凉軒日録].
1461 寛正2 9 2 斯波義敏の子松王丸が退けられ,渋川義鏡の子息が家督を継ぐ[雑事記].
1461 寛正2 9 17 幕府,丹生郡野田本郷内元興寺領代官職を一色政煕に知行させる[(2)胄山文庫-1].
1461 寛正2 10 13 朝倉孝景,興福寺領坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭使に任じられる[雑事記].
1461 寛正2 10 16 渋川義鏡の子息,将軍義政のもとに参上し,斯波義廉と称する[雑事記].
1461 寛正2 10 17 朝倉孝景,将軍義政から越中・越前両国で7か所の地を宛行われる[雑事記].
1461 寛正2 10 20 朝倉慈視院光玖,坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭徴収のため,朝倉孝景の代官として京都より越前へ下向[雑事記].
1461 寛正2 10 25 坂井郡河口荘の荘民,田楽段銭使に朝倉孝景が任じられることに反対[雑事記].
1461 寛正2 この年前年来の大飢饉となり,京中の死者8万2,000人という[碧山日録].
1462 寛正3 10 25 武田信賢,京都相国寺付近で土一揆への警固を行う[蔭凉軒日録].
1462 寛正3 12 13 遠敷郡芝田貞信,太良荘尻高名主職に補任される[ノ-320].
1462 寛正3 12 15 武田信賢,遠敷郡明通寺を祈願所とする[(9)明通寺-61].
1463 寛正4 2 22 遠敷郡太良荘売却地の相論につき,本所方百姓が湯起請の神判をうけたのち,半済給人に詫言して検断を回避[は-364].
1463 寛正4 4 21 小浜に入港した船とその積荷をめぐり,武田被官と一色義直被官の小浜住人が相論[政所内談記録].
1463 寛正4 5 遠敷郡太良荘,埋樋口を今富荘が塞いでいることを訴える[ハ-328].
1463 寛正4 6 26 三方郡常神浦の浦人たちが,同郡常神社の造営や修理の費用を負担する[常神社棟札銘].
1463 寛正4 6 26 小浜の舟荷物相論につき,大船十三丸は係争外として除かれ,相論の持舟は請人を立てて返付されることになる[政所内談記録].
1463 寛正4 10 13 南条郡妙法寺の正伝首座,公文(公帖)を受け住持に任命される[蔭凉軒日録].
1463 寛正4 11 19 越前の前守護斯波松王丸が相国寺で薙髪する[蔭凉軒日録].
1463 寛正4 11 27 今立郡日円寺,守護の違乱を受けたことを訴える[蔭凉軒日録].
1463 寛正4 この年斯波義廉,朝鮮に使を派遣する[海東諸国記].
1464 寛正5 6 24 5月に坂井郡河口荘細呂宜郷下方で長慶寺が百姓3名を召篭めたため紛争が生じ,興福寺学侶はその責任は朝倉教景(孝景)にあるとして呪咀する[私要鈔,雑事記].
1464 寛正5 8 10 朝倉教景,興福寺学侶の訴えを容れ,坂井郡河口荘・坪江郷において悪行被官人を取り締まるという告文を提出[私要鈔].
1464 寛正5 8 13 坂井郡金津八日市新関代官職を,細呂宜上方橋賃代官の井藤が押妨する[雑事記].
1464 寛正5 10 17 大野郡一帯を二宮信濃入道が押領し,斯波義敏の父持種がその返還を幕府に訴える[蔭凉軒日録].
1465 寛正6 1 10 延暦寺衆徒が東山大谷の本願寺を襲い,蓮如,逃れて堅田に至る[本福寺由来記].
1465 寛正6 2 6 坂井郡称念寺薗阿,将軍家に蝋燭200挺を進上[親元日記].
1465 寛正6 3 23 大飯郡木津荘・遠敷郡富田郷について,幕府政所代蜷川親元とその被官が代官に任命される[親元日記].
1465 寛正6 4 24 坂井郡坪江郷代官承棟,請負年貢が集まらないことを理由に代官職を放棄[雑事記].
1465 寛正6 5 21 越前小守護代の一井・平右馬氏,南条郡河野・今泉と山内(丹生郡山干飯郷)の馬借の相論につき,塩・槫は両浦と山内の半分宛取り扱いと裁決[(6)宮川源右ヱ門-1].
1465 寛正6 6 21 丹生郡山内の馬借,今泉浦中屋のもとで営業しないこと,塩・槫の里買いを摘発することなどについて契約状を作成[(6)西野次郎兵衛-1].
1465 寛正6 7 7 京都の斯波義廉邸において,越前猿楽右馬太郎の能が上演される[親元日記].
1465 寛正6 7 13 幕府,対馬守護宗成職の進物船が小浜湊に着岸したときの取り計らいを,小浜代官伊賀次郎左衛門尉に指示[親元日記].
1465 寛正6 7 14 足羽郡一乗谷の朝倉光玖,幕府に蝋燭を贈る[親元日記].
1465 寛正6 7 延暦寺による浄土真宗高田派攻撃を避けるため,丹生郡風尾勝鬘寺・坂井郡新郷専光寺などが延暦寺に登山し弁明[(2)専修寺-2].
1465 寛正6 9 2 幕府,武田氏による遠敷郡太良荘の百姓住宅検封・竹木伐採,人夫伝馬賦課を停止[ノ-325].
1465 寛正6 10 16 大飯郡大島山・和田山間の本郷山境につき幕府が武田信賢に命じ,大飯郡司の干渉を退ける[(2)本郷-93].
1465 寛正6 11 6 坂井郡長崎称念寺が,後土御門天皇の祈願所となる[(4)称念寺-2].
1465 寛正6 11 20 周防にいる斯波義敏の赦免につき,将軍義政が甲斐・朝倉の意向を徴するが,両人ともに反対する[私要鈔].
1465 寛正6 12 29 斯波義敏の赦免が実現し,義敏は将軍に参賀[雑事記].
1466 文正1 1 5 興福寺領三国湊が内膳司領となり,使者が入部しようとする[雑事記].
1466 文正1 2 越前の女猿楽が上洛し,室町第や仙洞御所で能を上演する[後法興院記,蔭凉軒日録].
1466 文正1 (2) 5 三国湊が内膳司領とされたことにつき,興福寺学侶・衆徒が訴える[雑事記].
1466 文正1 7 24 斯波義廉が退けられ,斯波義敏に斯波家惣領職が譲渡される[雑事記].
1466 文正1 8 12 京都の斯波邸付近で騒動[後法興院記].
1466 文正1 8 18 斯波義敏に大野郡が安堵される[蔭凉軒日録].
1466 文正1 8 25 斯波義敏に対し,越前・尾張・遠江の3か国拝領の将軍家御判が与えられる[雑事記].
1466 文正1 8 坂井郡河口荘細呂宜下郷の先代官堀江民部,実力で郷に入部し,以後この地を支配する[私要鈔,雑事記].
1466 文正1 9 2 朝倉光玖が先月より代官を追い出して一条家領安居を支配していたが,この日一条家代官が河井・加賀勢や地下の支援を得て光玖を排除[雑事記].
1466 文正1 9 6 文正の政変.斯波義敏父子・伊勢貞親父子・蔭凉軒真蕊ら反斯波義廉派8名が京都から没落[雑事記,私要鈔].
1466 文正1 10 15 朝倉孝景,丹生郡織田寺に対する兵粮米以下の賦課を停止[(5)劒神社-6].
1466 文正1 10 遠敷郡太良荘百姓,徳政のことにより国が不穏で,京都への通路も塞がっているので地子銭を送れないと注進[ハ-347].
1466 文正1 11 13 若狭で牢人蜂起につき,将軍義政,国内の荘園に対し守護武田氏に合力せよとの命令を下す[タ-175].
1467 応仁1 1 18 応仁の乱が始まる[応仁記].
1467 応仁1 1 21 西軍の朝倉孝景,京都の斯波持種・竹王父子を襲撃して追放[後法興院記,雑事記].
1467 応仁1 5 越前・遠江・尾張諸国に東軍の斯波義敏勢が侵入[雑事記].
1467 応仁1 5 武田信賢,小浜近辺の一色勢を退けるため若狭へ下向[応仁別記].
1467 応仁1 6 8 朝倉孝景,東軍の京極持清勢を破る[雑事記].
1467 応仁1 6 14 朝倉孝景,東軍の武田信賢勢を京都二条で破る[私要鈔].
1467 応仁1 10 22 大野郡丁郷・井野辺郷の領主醍醐寺,兵粮米の免除を二宮氏に求める[(2)醍醐寺-138].
1467 応仁1 10 25 武田氏,東寺領遠敷郡太良荘を押領し,年貢を徴収[ヌ-223].
1468 応仁2 2 武田信賢が若狭に城郭を築く[私要鈔].
1468 応仁2 5 斯波義敏方の軍勢,朝倉氏など斯波義廉与党を国中から追い出す[私要鈔].
1468 応仁2 5 若狭武田氏,遠敷郡明通寺への陣僧催促を停止する[(9)明通寺-66].
1468 応仁2 9 3 朝倉孝景に対し,幕府の政所執事伊勢貞親が東軍への勧誘の書状を送る[朝倉家記所収文書].
1468 応仁2 (10) 14 越前を東軍の斯波義敏が制圧したため,朝倉孝景が子息氏景を京都に残し,反撃のため兄弟両3人をともない越前へ下向[雑事記].
1468 応仁2 12 12 朝倉孝景が数日前に斯波義廉方(西軍)から斯波義敏方(東軍)に降ったと噂される[碧山日録].
1468 応仁2 この年大浜津(小浜津か)守護代官左衛門大夫源義国が朝鮮に使者を送り,宗貞国を通じて接待を求める[海東諸国記].
1469 文明1 1 29 将軍義政,朝倉孝景に従い西軍斯波義廉を討つことを,越前国人深町久清に命じる[(2)尊経閣文庫-37].
1469 文明1 4 1 武田信賢の部将逸見・粟屋・温科氏ら,細川持賢の家臣天竺孫四郎とともに丹後に討ち入る[応仁別記].
1469 文明1 5 21 朝倉孝景,越前の土豪深町久清に加勢を依頼するとともに,知行分の安堵を約する[(2)尊経閣文庫-39].
1469 文明1 10 15 興福寺新供衆,朝倉孝景に三国湊の件につき書状を送る[雑事記].
1469 文明1 この年越前守護代甲斐政盛,朝鮮に使者を派遣[海東諸国記].
1470 文明2 3 9 敦賀郡櫛川郷百姓,西福寺清観院の門前衆の守護役などは自分たちが負担することを誓約[(8)西福寺-135].
1470 文明2 4 15 坂井郡河口荘の荷物が前年に近江坂本で掠奪されたと興福寺が訴える[雑事記].
1470 文明2 4 26 京極持清,出雲美保関役を無沙汰の隠岐の廻船については,小浜で徴収すると出雲守護代尼子氏に告げる[(2)佐々木-4].
1470 文明2 8 20 朝倉孝景,坂井郡河口荘本庄郷・大口郷の済物を押領[私要鈔].
1470 文明2 10 5 畠山義就の養子政国,義就の命により越前で殺害される[雑事記].
1470 文明2 10 越前の興福寺領が守護方により押領される[私要鈔].
1470 文明2 12 18 武田氏家臣の逸見宗見,遠敷郡玉置荘一分方代官職を競望する[親長卿記].
1471 文明3 2 29 朝倉孝景,直奉公分として将軍義政に参仕し,子息氏景も同じく越前に下向して,義敏被官となったと伝えられる[雑事記].
1471 文明3 5 21 将軍足利義政,朝倉孝景に越前守護職についての御内書を下す[朝倉家記所収文書].
1471 文明3 6 2 若狭守護武田信賢が病死する(52歳)[宗賢卿記].
1471 文明3 6 4 若狭十二関の一番遠敷郡守護源忠常らが,寿藺という名の僧を護送するとして朝鮮に使者を派遣[成宗大王実録,海東諸国記].
1471 文明3 6 8 朝倉氏景が東軍に降参したと噂される[雑事記].
1471 文明3 6 9 朝倉氏景が東軍となり,将軍義政に見参し,剣を与えられて越前に下国(6月29日下着)[朝倉家記所収文書].
1471 文明3 6 10 朝倉孝景,東軍方として軍事行動をおこし,今立郡河俣で戦う[当国御陳之次第].
1471 文明3 6 11 将軍足利義政,上杉房定や織田伊勢守・同駿河守に対し朝倉孝景への支援を命ずる御内書を下す[昔御内書符案].
1471 文明3 6 24 朝倉孝景,加賀の東軍富樫幸千代の援助を得るために,幸千代に守護を仰せ付けられたいと将軍に言上[朝倉家記所収文書].
1471 文明3 6 25 江北の朽木氏に対し,若狭武田氏と連携し敦賀郡境へ出陣するよう将軍義政が督促[(2)朽木家-11].
1471 文明3 7 21 朝倉孝景,国司と称し立烏帽子・狩衣の装束をつけたため国人たちの反感をかい,西軍の甲斐方に惨敗[雑事記].
1471 文明3 7 27 蓮如が越前に下向し,坂井郡吉崎に坊舎を建立する[蓮如上人遺文].
1471 文明3 8 24 今立郡鯖江・新庄で朝倉孝景と甲斐氏が合戦[当国御陳之次第].
1471 文明3 (8) 4 斯波道顕(持種),朝倉孝景宛ての感状を発給[朝倉家記所収文書].
1471 文明3 (8) 9 将軍義政,朝倉孝景に感状を発給[朝倉家記所収文書].
1471 文明3 9 21 坂井郡長崎が斯波義敏方により焼き払われる[雑事記裏文書].
1471 文明3 この年横越証誠寺の兼慶(のちに玄秀),吉崎の蓮如のもとへ参じる[反古裏書,一流諸家系図,陽願寺文書]./坂井郡興源寺などの浄土真宗系の諸寺が開創される[越前国名蹟考など]./武田国信(宗勲),禅僧の雪嶺永瑾から「一代風流の老将」と称えられる[梅渓集].
1472 文明4 8 6 朝倉氏が府中を制圧する[私要鈔].
1472 文明4 8 8 坂井郡長崎荘に閉篭していた甲斐勢下方衆を,朝倉氏が攻撃し敗走させる[雑事記].
1472 文明4 8 28 朝倉孝景,将軍に越前の寺社本所領の半済を願い許される[雑事記].
1472 文明4 11 16 気比社領南条郡大谷浦等の半済に関して,朝倉孝景の弟景冬が奉書を発する[平松文書].
1472 文明4 11 丹生郡志津荘において,領主賀茂御祖社の検注銭に反対して荘民が逃散[親長卿記].
1472 文明4 12 5 武田信賢,山科家被官人の足軽関通過を違乱しないよう幕府から命じられる[山科家礼記].
1472 文明4 この年炎旱と朝倉氏・甲斐氏間の合戦により,坂井郡河口荘の本庄・新郷・溝江新田が不作となる[雑事記].
1473 文明5 1 21 幕府の前政所執事伊勢貞親が若狭で死去する[雑事記].
1473 文明5 3 蓮如,親鸞著の「正信偈」と「和讃」を合本化して開版し,朝勤でその読誦を始める[本願寺作法之次第].
1473 文明5 4 3 甲斐氏,西軍の支援を得て越前に下る[雑事記].
1473 文明5 4 8 坂井郡称念寺,戦乱中にしばしば陣所とされるため場所を移動し,朝倉孝景より旧寺跡を安堵される[(4)称念寺-7].
1473 文明5 7 9 富樫幸千代勢,加賀山内の政親を攻撃し,朝倉孝景を通じて越中軍の援助を求める[親元日記].
1473 文明5 7 10 甲斐・加賀富樫幸千代勢,坂井郡細呂宜に侵入[雑事記].
1473 文明5 8 8 甲斐・朝倉両勢,坂井郡光塚・蓮浦で合戦[当国御陳之次第,雑事記].吉崎の蓮如,吉田郡藤島に避難[蓮如上人遺文].
1473 文明5 9 蓮如,大野郡平泉寺や坂井郡豊原寺などの諸宗への誹謗や守護・地頭を軽視することを禁止[蓮如上人遺文].
1473 文明5 10 1 越前に甲斐八郎の軍勢が打ち入り,坂井郡河口荘・坪江郷を焼き払う[雑事記].
1473 文明5 10 吉崎の多屋衆,加賀の牢人の攻撃を受けたならば一命を惜しまず合戦すべきことを決議[帖外御文].
1473 文明5 この年永平寺が火災に遭う[(4)永平寺-14]./朝倉孝景の帰依により,安養寺が一乗谷東新町に建立される.
1474 文明6 1 18 甲斐勢と朝倉勢が南条郡杣山で合戦[(6)水谷幸雄-1].
1474 文明6 5 16 甲斐勢と朝倉勢が崩河(九頭竜川),吉田郡殿下,足羽郡桶田口・波着山・岡保などで合戦(閏5月15日まで)[当国御陳之次第].
1474 文明6 (5) 5 敦賀天神浜で合戦[当国御陳之次第].
1474 文明6 6 10 美濃国守護代斎藤妙椿が越前に至り,朝倉氏と甲斐氏の和解を図る[雑事記].
1474 文明6 7 加賀において,富樫幸千代方と同政親方の合戦が始まる[白山宮荘厳講中記録].
1474 文明6 7 小浜に着いた越後青苧の割符の相論中は,小浜代官内藤佐渡入道が青苧を管理するよう,幕府が命じる[政所方書].
1474 文明6 9 15 若狭守護武田国信,丹後で自害した家臣の逸見駿河の死を悼み剃髪[実隆公記].
1474 文明6 10 14 加賀一向一揆が蜂起し,富樫幸千代の蓮台寺を攻略[白山宮荘厳講中記録].
1474 文明6 12 12 朝倉孝景,丹生郡剣神社の所領を安堵[(5)劒神社-8].
1475 文明7 1 6 武田国信,京都飛鳥井邸での歌会始めに参加する[実隆公記].
1475 文明7 2 14 朝倉孝景軍,大野郡犬山城の二宮勢を夜襲[当国御陳之次第].
1475 文明7 2 25 斯波義敏の子義良と甲斐八郎が合流し,将軍義政に拝謁[雑事記].
1475 文明7 3 18 戦乱を避けるため京都泉涌寺の仏舎利が遠敷郡妙楽寺に移され,維持のための仏供米が池田忠祐・同定祐より寄進される[(9)妙楽寺-2].
1475 文明7 4 25 幕府祈願寺の遠敷郡三宅荘の長久寺俊哲,先納所の弟の珠監寺よりの借銭催促を不当として幕府に訴える[政所賦銘引付].
1475 文明7 6 坂井郡吉崎の蓮如近臣の下間蓮崇,富樫政親との和睦の執り成しを求めた加賀一向一揆勢に対し,合戦継続が蓮如の意志だと偽る[実悟記拾遺].
1475 文明7 7 16 斯波持種が死去する[武衛系図].
1475 文明7 8 21 蓮如,吉崎から海路で退去し,若狭に向かう[鷺森旧事記].
1475 文明7 9 18 遠敷郡富田郷公文の片山正次,賀茂社司森雅楽助の借物50貫文未済につき,遠敷郡賀茂荘の年貢収納を幕府に願う[政所賦銘引付].
1475 文明7 11 18 斯波義敏,尾張に下る[和漢合符].
1475 文明7 この年年末近く,蓮如が遠敷郡名田荘志見ケ谷(染ケ谷)より知井坂を越え,丹波路に出て河内の出口坊(大阪府枚方市光善寺)に着く.
1476 文明8 4 19 大徳寺塔頭徳禅寺領の遠敷郡名田荘四か村(知見村・井上村・田村・下村)について,幕府が守護の押妨の停止を命ずる[大徳寺文書].
1476 文明8 7 6 池田定員,文明1年に小浜問丸中西次郎衛門から買得した今富内小石丸名の安堵を幕府に申請[政所賦銘引付].
1476 文明8 8 21 遠敷郡瓜生荘下司職の文書を質流れと称して守護被官中村氏が奪ったと,沼田光延が幕府に訴える[政所賦銘引付].
1476 文明8 9 14 斯波義良,朝倉孝景討伐を計画[親長卿記].
1476 文明8 9 20 敦賀郡司朝倉景冬,西福寺清観院の買得地知行と門前百姓支配および山林竹木伐採禁止を定める[(8)西福寺-138].
1476 文明8 11 大草公友,大飯郡大宝寺の遺跡を一乗寺に寄進[(9)中山寺-18].
1476 文明8 12 2 遠敷郡瓜生荘の定使の私的な借物があると称して,熊谷直俊が本所年貢を違乱したと若王寺雑掌が幕府に訴える[政所賦銘引付].
1477 文明9 1 18 武田氏と赤松氏,被官の喧嘩がもとで合戦する[長興宿祢記].
1477 文明9 2 1 若狭の野木片山新次郎,上洛して幕府政所代蜷川親元に会い,銭1貫文を政所伊勢貞宗に進納[親元日記].
1477 文明9 3 10 三方郡山東郷下司職をめぐり,青蓮院と武田氏被官中山氏が争う[結番日記].
1477 文明9 3 28 武田国信,細川政元より山科七郷における武田氏足軽の乱暴を止めるよう命じられる[山科家礼記].
1477 文明9 4 1 朝倉孝景,大宝寺息黒丸の元服にさいして,将軍に一字拝領を願う[親元日記].
1477 文明9 4 13 京都武田国信邸馬場で犬追物が行われる[親元日記].
1477 文明9 5 14 武田国信,山科郷民との間で相互に押領物を返還することを提案する[山科家礼記].
1477 文明9 5 29 京都武田邸で武田信賢七年忌追善の品経歌披講が行われる[親元日記].
1477 文明9 6 24 遠敷郡瓜生荘について,同荘下司の沼田光延が年貢を押領したとして,幕府に訴えられる[政所賦銘引付].
1477 文明9 7 30 朝倉孝景,合物座と左近駕輿丁座との紛争につき,新儀を止め昔のように相互に商売せよと裁決[(5)岡田健彦-1].
1477 文明9 7 歌僧招月庵正徹の高弟の正広,一乗谷に下向し,滞在中の二条派常光院尭憲らと孝景の歌会にたびたび参会する[松下集].
1477 文明9 8 6 武田国信,公家の広橋兼顕に対し,禁裏料所である小浜月充(御供料)の納入遅引の理由を述べる[兼顕卿記].
1477 文明9 8 歌僧正広,越前から上洛の途中に小浜の武田国信邸十五夜の歌会に列し,また武田氏家臣寺井賢仲の歌会にも出席[松下集].
1477 文明9 9 15 三方郡山東郷代官の山東下野入道,借銭契約のことで大森吉久より幕府に訴えられる[政所賦銘引付].
1477 文明9 12 11 幕府,大草三郎太郎に対し,料足250貫文の返済に大飯郡青荘の年貢を充てるよう命じる[政所賦銘引付].
1478 文明10 5 3 遠敷郡能義(野木)の片山正次,質流れとなっていた明通寺大般若経を買い戻し,寺家に寄進[(9)明通寺-77].
1478 文明10 7 7 武田国信,京都で犬追物を催す[親元日記].
1478 文明10 7 25 周防の大内政弘より幕府へ贈られた唐物が,小浜湊に着く[親元日記].
1478 文明10 8 15 飛鳥井雅康(二楽軒・宋世),朝倉孝景に招かれ下向[兼顕卿記別記].
1478 文明10 9 21 三方郡山東郷内で買得した則恒名・友清半名・満願寺田・太田極楽寺田・菅浜福林寺田の安堵を,田辺貞次が幕府に求める[政所賦銘引付].
1478 文明10 12 17 武田国信が若狭に下国[雑事記,親元日記].
1478 文明10 12 25 丹生郡大谷寺の「越知山年中行事」が作成される[(5)越知神社-26].
1478 文明10 12 綾小路有俊が北陸に下り,100日余朝倉館に逗留ののち,上洛する[晴富宿祢記].
1479 文明11 3 25 猿楽金剛大夫,越前に下る[雑事記].
1479 文明11 3 歌鞠家の飛鳥井雅親が若狭に至り,小浜瑞雲院で和歌を詠ずる[亜槐集].
1479 文明11 3 連歌師宗長,宗祇に同道し初めて一乗谷を訪れる[宇津山記,那智篭].
1479 文明11 3 朝倉孝景とその一族・家臣,京都清水寺造営に奉加銭を寄せる[(2)清水成就院-1].
1479 文明11 4 25 歌鞠家の飛鳥井雅康が越前に下る[親長卿記].
1479 文明11 5 12 武田氏家臣粟屋賢家,熊谷直継に三方郡倉見荘浦役銭のうち10貫文を武田氏中間分として渡すよう命じる[(8)大音正和-153].
1479 文明11 5 23 京都地蔵堂東庭において勧進曲舞が催され,越前の幸若大夫が幸若舞を舞う[晴富宿祢記].
1479 文明11 8 23 前関白一条兼良,応仁以来朝倉氏に押領された家領の回復を企てて自ら越前に下向[晴富宿祢記,後法興院記].
1479 文明11 (9) 4 斯波義良・義孝,甲斐・二宮氏らとともに朝倉孝景退治のため越前に進発[晴富宿祢記,長興宿祢記].
1479 文明11 (9) 18 一条兼良,家領の回復はならず,朝倉氏を家領の代官に任じて帰洛[晴富宿祢記,雑事記].
1479 文明11 10 朝倉孝景,斯波義良・甲斐勢らとの合戦のため,京都から越前への通路を閉鎖[後法興院記].
1479 文明11 11 1 斯波義良と甲斐氏,坂井郡豊原寺に入る.4日,二宮氏,大野郡平泉寺に入る.ついで坂井郡細呂宜で朝倉方と戦う[雑事記].
1479 文明11 11 21 朝倉勢,金津夜討[当国御陳之次第].
1479 文明11 12 27 大飯郡本郷氏庶子の国泰の主張が幕府より退けられ,国泰分中分下地・定段銭が惣領政泰に与えられる[(2)本郷-95].
1479 文明11 この年連歌師宗祇,朝倉孝景に連歌論書「老のすさみ」を贈り,また越前より小浜に赴き,武田国信邸の千句連歌会に発句する[老葉].
1480 文明12 1 10 甲斐勢,金津の朝倉氏景を攻撃し,町屋を焼く[雑事記].
1480 文明12 4 朝倉氏景と甲斐勢の戦闘で金津町屋と坂井郡熊坂が焼ける[雑事記].
1480 文明12 5 2 幸若舞の桃井直詮が死去する(文明2年死去説もある)[幸若由緒書].
1480 文明12 7 11 甲斐勢,坂井郡長崎城を攻略[雑事記].
1480 文明12 7 12 甲斐勢,坂井郡金津城・兵庫城・新庄城を攻略.九頭竜川以北の朝倉方の城は4,5か所のみとなる[雑事記].
1480 文明12 8 28 甲斐方,坂井郡河口荘民を兵士に徴発し,朝倉孝景と吉田郡芝原で戦う[雑事記].
1480 文明12 9 22 熊野御師河関南清高,諸国朝倉氏についての旦那職を実報院に永代売却する[(2)熊野那智大社-9].
1480 文明12 11 2 坂井郡河口荘・坪江郷が幕府の命により興福寺に還付される[雑事記].
1480 文明12 11 23 本郷氏一族内部の紛争に関連して,郷年貢の半分が幕府の所領である料所とされ,本郷氏に預けられる[(2)本郷-97].

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