Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1051~1100年

西 暦 和 暦 事 項
1051 永承6 この年前九年の役(~1062).
1052 永承7
1053 天喜1
1054 天喜2 12 21 気比大神宮諸殿舎の造営完了と伝える[気比宮社記].
1055 天喜3 12 14 東大寺領若狭国御封内の絹布98疋の内訳を権寺主大法師が報告[大18の1-444].
1056 天喜4 8 15 内大臣藤原頼宗が越前権守某らを東大寺領山城国玉井荘に派遣し押領しようとしていると,玉井荘から東大寺に言上[平811].
1056 天喜4 10 25 若狭国雑掌秦成安,東大寺御封の天喜1・2年の納入状況につき報告[大18の1-456].
1056 天喜4 12 28 僧念慶,若狭国の去年御封米代として手作布35段を東大寺に進上[大18の1-458].
1057 天喜5 11 23 僧念慶,若狭国の当年御封米代として絹5疋,手作布45段,牛1頭を東大寺に進上[大18の1-463].
1057 天喜5 11 23 東大寺政所,若狭国御封の天喜3年以来3か年間の済・未済勘文を作成[大18の1-464].
1057 天喜5 12 27 若狭国雑掌秦成安,東大寺の毎年の御封米のうち20石を進上[大18の1-467].
1057 天喜5 この年若狭国雑掌秦成安,天喜3・4年の東大寺御封は進上済みとの勘文提出[大18の1-468].
1058 康平1 11 8 正五位下藤原定成を越前守に任じる[弁官補任].
1058 康平1 (12) 7 若狭国雑掌秦成安,若狭国の東大寺当年御封米を進上[大18の1-481].
1058 康平1 この頃僧念慶,天喜3・4年の若狭国の東大寺御封米の結解を注進[大18の1-447].
1059 康平2 10 25 若狭国雑掌秦成安,若狭国の去年と今年の東大寺御封米130石を進上[大18の1-487].
1060 康平3 4 20 内大臣藤原頼宗が,自己の封戸のなかの500戸(300戸ヵ)を娘の女御延子に譲りたいと求めたなかに若狭国25戸あり[本朝続文粋].
1060 康平3 5 僧念慶,若狭国東大寺御封米の康平1・2年の結解を注進[大18の1-493].
1060 康平3 7 越前国司の大宋商客林表(林養)・俊改(俊政)ら敦賀津に参着との報告をうけ朝議により廻却を決めたが,林表らの上奏をうけ,安置させる[扶桑略記].
1060 康平3 8 7 林養・俊政らに食料を与え廻却させるよう定める[百練抄].
1060 康平3 11 13 小槻重兼,若狭国東大寺御封代として八丈絹7疋などを進上[大18の1-496].
1061 康平4
1062 康平5
1063 康平6 4 藤原頼成を越前守に任じる[後二条師通記].
1063 康平6 この年秦枝吉を越前少目に任じる[魚魯愚鈔]./文章生正六位上藤原国正を越前大掾に任じる[大間成文抄].
1064 康平7
1065 治暦1 この春藤井今長,越前目に任じられるが秋に返上[大間成文抄].
1065 治暦1 9 1 調物運漕に対し,若狭国気山津・越前国敦賀津などの刀祢らが勘過料と称し公物を割取るのを取り締まってほしいとの越中国解を受け,それを禁止する旨の太政官符出る[平補273].
1066 治暦2 2 14 源信房を若狭守に任じる[水左記].
1067 治暦3 この年一品内親王の当年給として従七位上漢部近時を越前大目に任じる[大間成文抄].
1068 治暦4 3 29 近江国高島・善積郡内にある平等院領2荘園を不輸不入とする太政官符が出たが,そのうち子田上荘の北限は若狭国比良山,河上荘の西限は杣山ならびに若狭国堺[平補170].
1068 治暦4 12 22 気比宮文を政にかけるか否かで議論あり(同月25日も)[帥記].
1069 延久1 5 13 陣定で越前守源某の条文,若狭国司源信房の上申する2か条(某荘園のこと,近江国木津で勘過料と称し調物を抑留すること)などについて評議[土右記].
1069 延久1 (10) 11 初めて記録荘園券契所を太政官朝所に設置.
1069 延久1 12 17 左中弁正四位下藤原師基を若狭守に任じる[弁官補任].
1070 延久2
1071 延久3 この年大蔵省下文に越前打綿1領とあり[平補175].
1072 延久4 6 13 奈良市南庄町公民館(もと小田原寺)阿弥陀如来坐像に「小仏師僧□□,以延久四年壬午六月十三日奉……願主筑紫筑前國比丘尼浄妙,佛師越前國僧定法」などの墨書銘あり[同像銘].
1073 延久5
1074 承保1 7 23 中宮職へ月料租舂米として30石を進納することを若狭国司某に命じる太政官符出る[平1101].
1074 承保1 8 28 中宮職封2,000戸のうち4分の1を削減との7月11日付太政官符をうけ,若狭国には封25戸・仕丁1人をあてるとの若狭国司某あて民部省符出る[平1105].
1074 承保1 8 28 従三位源澄子に位封25戸・仕丁1人を与えるべきことを若狭国司某に命じた民部省符出る[平1106].
1075 承保2
1076 承保3
1077 承暦1 12 14 前出雲守行房の三男が源俊房宅で元服.越前守藤原家通(家道)らが列席[水左記].
1078 承暦2 1 16 大宮司守貞の判により気比大神宮諸社御事という文書が作られたと伝える[気比宮社記].
1078 承暦2 1 20 従四位上右中弁藤原通俊に越前権守を兼任させる[公卿補任].
1078 承暦2 4 28 越前守藤原家道,内裏歌合せで歌を詠む[内裏歌合].
1079 承暦3 1 5 従四位上右中弁兼越前権守藤原通俊を正四位下に昇叙させる[公卿補任].
1080 承暦4 2 22 東大寺が若狭の封戸米50石分の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1080 承暦4 3 15 源俊房が管絃の人である若狭守源政長らを招く[水左記].
1080 承暦4 5 11 越前守源高実,源俊房宅に来る[水左記].
1080 承暦4 5 28 四条宮(故後冷泉天皇の皇后)の園城寺御堂の絵・仏具荘厳などの割当てを決める.行香具は若狭守源政長[水左記].
1080 承暦4 6 10 御体御卜で「祟をなす」との占いの出た若狭国若狭比古神・常神,越前国気比神・劔神・志比前神・足羽神・枚井手神などに使いを派遣し中祓を科すと神祇官が奏上[朝野群載].
1080 承暦4 (8) 26 越前国司源高実から宋使孫忠を存問した記録が届き,陣定で大宋国牒状を越前から提出させるか,大宰府に使者を行かせ,そこから提出させるか議論あり.前者に決着[帥記,水左記].
1080 承暦4 (8) 30 同月26日の件につき越前国より大宋国牒状を提出させるようにとの宣旨出る[水左記].
1080 承暦4 (8) 30 大宋国商人孫吉忠が明州の牒をもち越前国敦賀津に来着.官使を派遣し,牒を召す[扶桑略記].
1080 承暦4 9 12 左衛門権佐藤原行家が大宋国牒状を書き送ったが,これは宋使黄逢が越前国より官に提出したもの[水左記].
1080 承暦4 10 9 東大寺が若狭国の封戸米167石分の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1080 承暦4 10 30 良満法師が宋客に濫行したことを越前国司源高実が報告[水左記].
1080 承暦4 11 16 東大寺が若狭国の封戸米の4か年分の惣返抄を出す[平1334].
1081 永保1 1 藤原通宗を若狭守に任じる[続左丞抄].
1081 永保1 6 27 従四位上行若狭守藤原通宗,前職の周防守時代の未進につき解を出す[続左丞抄].
1081 永保1 8 11 夜に越前守源高実が源俊房を訪問[水左記].
1081 永保1 8 28 正四位下右中弁兼越前権守藤原通俊を蔵人頭に任じる[弁官補任].
1081 永保1 10 20 東大寺が若狭国封戸からの米50石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1081 永保1 10 25 女房,長谷寺に参る際に越前守某信任ら従う[帥記].
1081 永保1 10 29 宋使への返礼の信物のため越前に綿260斤など,諸国に糸・綿の進上を指示[水左記].
1082 永保2 6 16 円宗寺法華会の用途料として,越前国は米30石を毎年正月以前に進納するようにとの永宣旨あり[江家次第].
1082 永保2 8 3 宋客の楊宥が献上した鸚鵡を越前国司某に命じて進上させる[十三代要略].
1082 永保2 この年従七位上藤井是武を越前大目に任じる[魚魯愚鈔].
1083 永保3 9 後三年の役(~1087).
1084 応徳1 6 22 右大弁正四位下藤原正家を若狭守に任じる[弁官補任].
1084 応徳1 11 意足寺(大飯町満願寺末寺)千手観音像胎内経の奥書に「応徳元年十一月於椎野以朽原点更加墨点了」とある[同胎内経].
1085 応徳2 9 21 東大寺が若狭国封戸からの米100石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1086 応徳3 (2) 25 越前国大野郡司が醍醐寺円光院領牛原荘内の荒野田畠注文を作成[醍醐雑事記].
1086 応徳3 (2) 越前国大野郡牛原荘の荘田開発庁宣出る[醍醐雑事記].
1086 応徳3 8 12 越前大掾藤原実義を御書所別当に任じる[朝野群載].
1086 応徳3 8 30 東大寺が若狭国封戸からの米100石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1086 応徳3 11 1 越前国に安置した唐人のことに関する国解が届く[後二条師通記].
1086 応徳3 11 2 東大寺が若狭国封戸からの米50石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1086 応徳3 11 26 堀河天皇践祚につき若狭掾高階重仲を蔵人に任じる.越前守源高実,政所吉書を申す[柳原家記録].
1086 応徳3 11 26 白河上皇,院政を始める.
1086 応徳3 12 19 堀河天皇即位の儀で越前守源高実が右大将代を務める[柳原家記録].
1086 応徳3 この年越前守源高実,越前国大野郡牛原荘200余町を醍醐寺円光院に寄進[醍醐寺新要録]./牛原荘の荘園建立につき最初の立券あり[醍醐雑事記].
1087 寛治1 3 28 従五位下藤原為隆を越前権守に任じる[弁官補任].
1087 寛治1 4 15 摂政藤原師実,賀茂社参詣.若狭守藤原正家,御幣を献じる[為房卿記].
1087 寛治1 5 26
政に藤原為房,前遠州の八条水閣に行く.越州員外など来臨[為房卿記].
1087 寛治1 6 14 東大寺が若狭国封戸からの米20石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1087 寛治1 6 14 若狭守藤原正家,権左少弁藤原為房に摂政藤原師実の初度の上表にあたり,上表文を作るよう指示[為房卿記].
1087 寛治1 6 24 摂政藤原師実初度の上表.若狭守藤原正家が上表文の草案を作成.また越前守源清実ら表をのせる机を運ぶ[為房卿記].
1087 寛治1 7 1 摂政藤原師実2度めの上表にあたり,若狭守藤原正家,上表文の草案を作成[為房卿記].
1087 寛治1 7 25 陣定で越前国の唐人のことを議論[為房卿記].
1087 寛治1 8 16 越前国の唐人を廻却させる宣旨につき,藤原為房が摂政藤原師実に呼ばれる[為房卿記].
1087 寛治1 8 23 摂政藤原師実3度めの上表にあたり,若狭守藤原正家,上表文の草案を作成[為房卿記].
1087 寛治1 8 25 官奏にあたり若狭守藤原正家,申奏[為房卿記].
1087 寛治1 8 28 東大寺が若狭国封戸からの米150石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1087 寛治1 12 7 陣定で越前国へ来着した唐人のことを議論[本朝世紀].
1087 寛治1 12 13 若狭守正四位下藤原正家に式部権大輔を兼任させ,従五位下藤原経忠を越前権守に任じる[本朝世紀].
1088 寛治2 1 白河・堀川2代天皇の御祈僧を務めた賞により,摂政藤原師実が法琳寺阿闍梨宣慶に越前国封戸45戸を法琳寺仏供灯明料として与える[太元秘記].
1088 寛治2 3 23 白河上皇,鳥羽殿で見物.前駈のうちに前越前守源高実・越前守源清実あり[寛治二年記(群)].
1088 寛治2 9 1 東大寺が若狭国封戸からの米80石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1088 寛治2 11 17 五節舞で越前守源清実が舞姫を献じる.また,車が越前守のもとに送られる[中右記,帥記].
1088 寛治2 11 19 権大納言源経信が越前守源清実に絹30疋送る[帥記].
1088 寛治2 12 14 摂政藤原師実が太政大臣に任じられた祝の宴会の席上,三献で越前守源清実,上官に勧める[寛治二年記(群)].
1088 寛治2 12 22 参議右大弁正三位藤原通俊に越前権守を兼任させる(本朝世紀では同月25日)[公卿補任].
1088 寛治2 この年越前守源清実,醍醐寺円光院領越前国大野郡牛原荘の縮減を図る[醍醐雑事記]./越前国牛原荘の内検帳作成される[醍醐雑事記].
1089 寛治3 4 1 若狭守藤原正家,郎従惟近から傷害をうける[百練抄].
1089 寛治3 8 22 東大寺が若狭国封戸からの米150石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1089 寛治3 10 4 東大寺が若狭国封戸からの米70石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1089 寛治3 10 18 陣定で若狭の大宋国商人が害されたことについて議する[後二条師通記].
1089 寛治3 11 11 五節に若狭守藤原正家,参入[中右記].
1090 寛治4 7 13 賀茂御祖社に不輸租田745町が奉じられたが,そのうちに越前国丹生郡志津荘田地40町あり[賀茂社古代庄園御厨].
1090 寛治4 11 2 東大寺が若狭国封戸からの米50石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1090 寛治4 この年醍醐寺円光院領越前国大野郡牛原荘の東限は大野河となる[醍醐雑事記].
1091 寛治5 2 17 中宮職から若狭国などの諸節・旬贄は内膳司を経由しないで直接収納したいとの申請あり[後二条師通記].
1091 寛治5 3 10 東大寺が若狭国封戸からの米20石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1091 寛治5 7 20 加賀守藤原為房,上京の途次,午刻越前大丹生泊に着き,夜に敦賀の官舎に着き宿泊[為房卿記].
1091 寛治5 7 21 敦賀官舎に逗留の加賀守藤原為房,書籍を進めた宋人陳苛に資粮を与える[為房卿記].
1091 寛治5 7 25 宋人尭忠が敦賀津に来着[為房卿記].
1091 寛治5 (7) 2 敦賀津に来着した宋人尭忠に,当地逗留中の加賀守藤原為房が方物を送る[為房卿記].
1091 寛治5 9 24 東大寺が若狭国封戸からの米150石の代物の仮納返抄を出す[平1334].
1091 寛治5 12 17 関白藤原師実の50歳を賀し,法成寺で法会あり.越前守源清実が左楽行事を務める[後二条師通記].
1092 寛治6 1 25 正三位左大弁参議勘解由長官式部大輔大江匡房に越前権守を兼任させる[弁官補任].
1092 寛治6 1 26 藤原忠実,権中納言に任じられ慶賀を申す.前駈21人の1人として越前守源清実が加わる.また清実を御随身所別当に任じる[為房卿記].
1092 寛治6 1 29 吉書.その内容は新任国鈎文・但馬若狭文・馬料文[為房卿記].
1092 寛治6 1 29 権中納言藤原忠実の職事の1人に越前守源清実の子の雅職を任じる[為房卿記].
1092 寛治6 2 6 藤原忠実,春日祭に南都に赴く.同行の大夫30人のうちに若狭守藤原行綱・越前守源清実あり[為房卿記].
1092 寛治6 2 7 春日祭で若狭守藤原行綱ら倭舞を舞う[為房卿記].
1092 寛治6 4 12 陣定で議論すべき若狭新国司の解5通を頭弁が内大臣藤原師通に渡す[後二条師通記].
1092 寛治6 4 23 若狭守藤原行綱申請の条々につき陣定あり[中右記].
1092 寛治6 4 26 陣定で若狭国の解を議論[後二条師通記].
1092 寛治6 5 2 新立荘園の停止など若狭国に関する5か条の宣旨あり[後二条師通記].
1092 寛治6 7 27 相撲節会の御前内取があり越前の藤井時常と安芸の藤井頼助が取合う[後二条師通記].
1092 寛治6 10 3 巳刻,若狭守藤原行綱が内大臣藤原師通宅に来て,関白藤原師実の命を伝える[後二条師通記].
1092 寛治6 11 3 若狭守藤原行綱,任国に赴任する旨を内大臣藤原師通に伝える[後二条師通記].
1092 寛治6 11 4 越前守源清実,内大臣藤原師通に米50石を献じる[後二条師通記].
1093 寛治7 1 文章生高橋国棟を越前大掾に任じる(大間成文抄では越後大掾)[魚魯愚鈔].
1093 寛治7 3 11 高陽院中宮御方にて蹴鞠,若狭守藤原行綱が参加[後二条師通記].
1093 寛治7 この春藤井武国を越前少掾に任じる[魚魯愚鈔].
1093 寛治7 4 27 高陽院などにて競馬,若狭守藤原行綱が仕皷を務める[後二条師通記].
1093 寛治7 5 9 賀茂下社競馬,越前守清実が鼓を務める[中右記].
1093 寛治7 8 26 興福寺領近江国市荘に濫妨した近江守高階為家の所従2人を越前国に配流(中右記では同月28日)[春日社司祐賢記].
1094 嘉保1 1 20 この頃大雪.美濃・尾張・北陸道の積雪が「数丈におよぶ」という[中右記].
1094 嘉保1 2 22 正六位上三善為倫を若狭掾に任じる[柳原家記録].
1094 嘉保1 3 9 新関白藤原師通,氏長者となる.若狭守藤原行綱,印櫃を持参.また越前守源清実,家司となる[摂関詔宣下類聚].
1094 嘉保1 6 13 越前権守大江匡房を権中納言に任じる[公卿補任].
1094 嘉保1 8 1 関白藤原師通,越前の重ねての解を内覧[中右記].
1094 嘉保1 8 17 白河上皇を呪咀したことにより源惟清ら配流.その弟顕清は越前に近流[中右記].
1094 嘉保1 9 23 結政.越前の勘出が議題になる[中右記].
1094 嘉保1 9 28 藤原宗忠,権中納言藤原通俊と会い越前官使のことで意見を聞く[中右記].
1094 嘉保1 12 8 藤原宗忠,越前国役夫工作料代賃のことを関白藤原師通に報告[中右記].
1095 嘉保2 1 28 正四位下左大弁参議勘解由長官藤原季仲に越前権守を兼任させる[弁官補任].
1095 嘉保2 1 28 従五位下藤原家保を越前守に任じる[公卿補任].
1095 嘉保2 4 23 吉田祭.院神馬が社殿を8度廻り出るが,使の越前守藤原家保は入らず[中右記].
1095 嘉保2 8 9 越前の両面のこと,白河上皇が了承[中右記].
1095 嘉保2 8 12 左近衛大将藤原忠実,東三条殿で相撲人に饗禄を与えたが,そのなかに越前の時則がおり,弓と織単衣を与えられる[為房卿記].
1095 嘉保2 12 藤原正家を,若狭国公文は未勘問であったが式部大輔に任じる[本朝続文粋].
1096 永長1 1 24 正五位下藤原顕隆を院分として若狭守に任じる[中右記,公卿補任].
1096 永長1 2 23 京極殿で白河上皇に和歌を献上した殿上人のなかに若狭守藤原顕隆あり[中右記].
1096 永長1 3 4 若狭守藤原顕隆,籖符に請印[時範記].
1096 永長1 10 30 前若狭守藤原行綱の申請により東大寺に対し,若狭国にある封戸50戸の色数の子細の言上を命じる弁官下文出る[大6-333].
1096 永長1 12 16 東大寺に若狭国封戸50戸を前別当慶信の時の例により勘納させる[大6-331].
1096 永長1 12 27 若狭・周防の勘出をおわる[中右記].
1096 永長1 12 29 若狭前司藤原行綱の帳を陣に下す[中右記].
1096 永長1 この年東大寺,若狭の封戸からの弁済を命じる宣旨発行を求める[平1367].
1097 承徳1 1 5 陣定で若狭前司の文書功過を定める[中右記].
1097 承徳1 1 30 従五位上藤原敦兼を若狭守に,豊原維俊を若狭掾に,中原良兼を越前大掾に任じる[中右記].
1097 承徳1 3 24 越前守藤原家保に左衛門佐を兼任させる[公卿補任].
1097 承徳1 4 8 若狭守藤原敦兼に還昇殿を許す[中右記].
1097 承徳1 4 10 若狭守藤原敦兼,昇殿の後参内[中右記].
1097 承徳1 4 11 斎院令子内親王の御禊.若狭守藤原敦兼ら4人前駈を務める[中右記].
1097 承徳1 5 23 関白藤原師通の九条第新造につき立石を諸人より徴したが未進のなかに越前権守藤原季仲あり[九条殿記].
1098 承徳2 1 6 従三位越前権守藤原季仲を正三位に叙する[弁官補任].
1098 承徳2 2 9 興福寺上棟により,関白藤原師通に扈従の殿上人のなかに若狭守藤原敦兼あり[殿暦].
1098 承徳2 3 9 石清水臨時祭の舞人のなかに左衛門佐兼越前守藤原家康(保)あり[石清水文書].
1098 承徳2 3 24 六観音御修法.如意輪観音は権律師公円で若狭国の御壇供を奉じる[元亨三年具注暦裏書].
1098 承徳2 5 27 造宮御祈諸社御読経日時を陰陽寮が勘申.稲荷社は法橋厳覚に仁王経を転読させるが,「越前」とあり[元亨三年具注暦裏書].
1098 承徳2 7 20 越前守藤原家康(保)を閑院行幸の賞により従五位上に叙する[公卿補任].
1098 承徳2 9 24 藤原宗忠,若狭守藤原敦兼らと同車にて法勝寺に参詣[中右記].
1098 承徳2 10 23 若狭守藤原敦兼らに院昇殿を許す[中右記].
1098 承徳2 10 30 越前守藤原家康(保)に重任の宣旨下す[中右記].
1098 承徳2 11 13 左中弁藤原宗忠の二子宗能・宗成元服.一条殿では若狭守藤原敦兼ら参加[中右記].
1098 承徳2 11 29 賀茂臨時祭の御神楽の陪従に若狭守藤原敦兼あり[中右記].
1099 康和1 1 3 越前守藤原家保を勧賞により正五位下に叙する[本朝世紀,公卿補任].
1099 康和1 3 26 権大納言藤原家忠の子元服.若狭守藤原敦兼参加[後二条師通記].
1100 康和2 1 26 正六位上藤井兼次が越前国掾を望み,少掾に任じられる[魚魯愚鈔].
1100 康和2 3 26 従五位上行主税権助兼算博士三善雅仲,儒労により越前・越中国介の兼任を請う[朝野群載].
1100 康和2 7 6 白河法皇,越前国坂井郡河口荘を料所として春日社で毎日不退一切経転読を始める[南都七大寺巡礼記].
1100 康和2 7 14 越前国坂井郡河口荘領検校であった権大僧都隆禅,死去[諸寺縁起集].
1100 康和2 7 23 正五位下越前守藤原家保を造宮の賞により従四位下に叙する[公卿補任].
1100 康和2 この秋某,敦賀津において唐人黄昭を雇い金剛頂瑜伽経十八会指帰(石山寺所蔵)を書写させる[平1118].
1100 康和2 12 従五位下藤原宗能を越前守に任じる[公卿補任].

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