Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1351~1400年

西 暦 和 暦 事 項
1351 観応2 1 19 本願寺覚如が死去する[常楽台主老衲一期記].
1351 観応2 1 24 若狭の南朝方が蜂起したため,北朝方の足利尊氏が若狭の本郷貞泰に軍勢を催促する[(2)本郷-23].
1351 観応2 2 1 足利尊氏,本郷家泰に坂井郡春近郷地頭職半分,佐々木道誉に若狭国税所今富名などを給与[(2)本郷-24,佐々木-2].
1351 観応2 2 17 足利尊氏,本郷貞泰に摂津打出浜への参陣を命じる[(2)本郷-25].
1351 観応2 3 妙光寺(現小浜市),足利尊氏の祈祷所として,禁制を与えられる[(2)松雲公-3].
1351 観応2 4 1 三方郡山西郷の年貢米の一部が,猿楽の楽頭米に充てられる[(8)江村伊平治-1].
1351 観応2 4 越前保を十方院叡運が押領していることを日吉二宮彼岸結衆が訴える[八坂神社記録].
1351 観応2 7 28 土御門家領遠敷郡名田荘上村を,中井道覚らが山門領と号して濫妨することを院宣で停止する[(2)土御門家-1].
1351 観応2 7 足利直義・斯波高経・山名時氏ら,京都を逃れ敦賀に下る[園太暦,太平記].
1351 観応2 9 21 足利直義,敦賀より近江に進撃する[園太暦].
1351 観応2 9 斯波家兼,遠敷郡明通寺に禁制を下す[(9)明通寺-32].
1351 観応2 10 21 若狭の本郷一族の本郷泰光と松田惟貞らが討死する[(2)本郷-33].
1351 観応2 11 3 三方郡二十八所社(弥美神社)の修正頭役料物の不足について,同郡山西郷の領家が,同郷大王丸名の年貢の一部を充てる[(8)園林寺-27].
1351 観応2 11 若狭において足利直義方の国人一揆が形成され,守護大高重成の代官大崎八郎左衛門入道を追い出す[守護職次第].
1351 観応2 12 26 若狭国人一揆衆の三宅入道,遠敷郡太良荘に乱入[ハ-363].
1352 文和1 2 26 足利直義,毒殺される[太平記].
1352 文和1 2 遠敷郡太良荘百姓ら,国人一揆衆の一人脇袋(瓜生・小槻)国治を同荘地頭方代官とすべきことを東寺に訴える[ハ-19・363].
1352 文和1 (2) 18 足利義詮,本郷貞泰に対し南朝との和平が破れたことを告げ,若狭の南朝方を討つよう命じる[(2)本郷-36].
1352 文和1 3 11 若狭路から足利直義方の越前守護以下の勢力が京都へ攻め上るとの風聞あり[園太暦].
1352 文和1 4 2 若狭国河崎荘と足羽郡主計保が,足利尊氏より延暦寺の山徒一揆衆に与えられる[(2)永田一馬-1].
1352 文和1 6 5 幕府,東福寺領の加賀国熊坂荘の年貢につき,敦賀湊および路次において違乱なきよう命じる[(2)尊経閣文庫-25].
1352 文和1 6 10 幕府,佐野二郎左衛門尉が遠敷郡太良荘預所と称して濫妨することを停止するよう守護斯波家兼に命じる[せ-足9].
1352 文和1 6 21 三方郡佐々田坊五郎右衛門尉,公事負担の替わりとして,堺土網場を日向浦早瀬方刀祢に渡す[(8)渡辺六郎右衛門-1].
1352 文和1 7 越前保を十方院叡運が押領していることを日吉二宮彼岸結衆が重ねて訴える[八坂神社記録].
1352 文和1 8 2 坂井郡春近荘四分一地頭職が,足利義詮より本郷家泰に与えられる[(2)本郷-43].
1352 文和1 8 13 敦賀津升米を幕府が祇園社に造営料として充てるが,気比社が申状を提出して争う[祇園執行日記].
1352 文和1 10 今立郡小礒部保が園城寺に造営料所として安堵され,丹生郡宮成保地頭職が同寺に寄進される[(2)園城寺-2~5].
1352 文和1 11 28 敦賀津升米につき,祇園社社務執行顕詮が同社太子堂のもとに赴く[社家記録].
1353 文和2 4 16 河崎信成,遠敷郡玉置荘清沢名を神宮寺に寄進[(9)神宮寺-8].
1353 文和2 7 山名時氏,南朝の足利直冬から若狭守護に任じられる[守護職次第].
1353 文和2 10 遠敷郡神宮寺,諸国利生塔の例にならって祈祷料所を寄進されるよう幕府に要請[(9)神宮寺-10].
1354 文和3 5 25 遠敷郡堅海荘・三方郡田上保の地頭職が,守護斯波家兼に与えられる[(8)大音正和-69].
1354 文和3 9 27 細川清氏,若狭守護に任じられて下向し,しばらく神宮寺に逗留する[守護職次第].
1354 文和3 11 8 遠敷郡明通寺に南朝年号(正平9)の禁制が発せられる[(9)明通寺-35].
1354 文和3 12 10 夜に三方郡御賀尾浦で騒動がおこる[(8)大音正和-276].
1354 文和3 この年遠敷郡太良荘地頭方において,東寺が収納した年貢56石余の半分が守護細川清氏方半済分としてはじめて徴収される[ハ-30].
1355 文和4 1 丹生郡玉河浦と南条郡奴可(糠)浦の地頭職が足利尊氏より日吉社に寄進される[日吉大社所蔵文書].
1355 文和4 6 16 南朝方が没落.越前守護斯波高経が越前に戻る[園太暦].
1355 文和4 8 10 若狭守護細川清氏,三方郡小川浦松本友連支配の辺津浜山を御賀尾浦刀祢が押領することを停止[(8)大音正和-59].
1355 文和4 8 遠敷郡明通寺,100石の兵粮米免除を願う[(9)明通寺-36].
1355 文和4 9 2 遠敷郡太良荘における河崎信成の乱妨を停止するよう,足利尊氏が命令を下す[ミ-44].
1355 文和4 9 26 幕府,三方郡小川浦刀祢松本友連の辺津浜山支配を止め,俣山とともに御賀尾浦のものと裁決[(8)大音正和-61].
1355 文和4 10 大飯郡大島八幡宮に対し,若狭守護細川清氏より税所今富名の入船馬足料が寄進される[(9)塚本弘-1・2].
1356 延文1 1 9 斯波高経,再び幕府方に帰降し,許される[園太暦].
1356 延文1 7 13 坂井郡河口・坪江荘を守護斯波氏が違乱したとして,興福寺衆徒により春日社神木遷座が行われる[愚管記,園太暦].
1356 延文1 7 23 坂井郡河口・坪江荘について守護方が譲歩したため,春日社神木動座が延引される[愚管記].
1356 延文1 10 23 遠敷郡太良荘において,同荘公文禅勝・実円排斥のための惣百姓一揆が結ばれる(1358年3月まで)[し-22・24].
1357 延文2 6 15 細川清氏,越前守護職を望むが補されず,この日,阿波に帰る[園太暦].
1357 延文2 7 10 河崎信成,南朝年号(正平12年)を用い,遠敷郡神宮寺に今度拝領地の内田地3町を寄進し,祈祷を請う[(9)神宮寺-11].
1357 延文2 12 2 朝倉高景,足利尊氏より足羽郡足羽荘預所職を勲功の賞として宛行われる[朝倉家記所収文書].
1358 延文3 3 24 遠敷郡太良荘民と禅勝・実円が和睦する[ツ-36].
1358 延文3 4 30 足利尊氏が死去する[園太暦].
1358 延文3 7 1 丹生郡糸生郷地頭の千秋氏,家中の侍・中間・下部による丹生郡大谷寺の乱妨を禁止[(5)越知神社-14].
1358 延文3 7 遠敷郡小浜に沙弥朝阿(長井雅楽介か)が宝篋印塔を建立[西方寺宝篋印塔銘].
1358 延文3 11 遠敷郡太良荘において,同荘地頭代宮河弾正忠排斥の惣百姓一揆が結ばれる[ハ-42].
1358 延文3 この年永平寺・宝慶寺住持の曇希,伊自良知良の発願・助成により「永平語録」を開版[永平元禅師語録].
1359 延文4 3 三方郡藤井保の天満宮楽頭職に気山大夫が補任される[(8)江村伊平治-2].
1359 延文4 8 11 但治光政,大飯郡一乗寺に免田畠・山野を寄進[(9)中山寺-2].
1359 延文4 10 遠敷郡太良荘に対し,守護方が配符を下して役夫工米の納入を迫る[し-27,ツ-258].
1360 延文5 4 遠敷郡太良荘真村名主職をめぐり,観音女・法阿・若鶴女の間で三つどもえの相論がおこる[ハ-46].
1360 延文5 11 19 若狭の賀茂別雷社領を,守護細川清氏が半済として違乱することを停止する綸旨が発せられる[(2)賀茂別雷神社-9].
1361 康安1 4 遠敷郡太良荘百姓,麦の「ソモ」による被害を京都東寺に注進し,検見使の下向を求める[ハ-54].
1361 康安1 7 28 坂井郡曽々木村について,同地の知行を崇光上皇が入江好寒に安堵[(2)三時知恩寺-1].
1361 康安1 8 25 遠敷郡太良荘預所賀茂阿賀丸,公文禅勝を殺害する(9月には阿賀丸が禅勝の子に殺される)[ツ-44,し-241].
1361 康安1 9 24 細川清氏,失脚して若狭に下る[太平記,鎌倉年代記].
1361 康安1 9 27 若狭に下った細川清氏を追討するため,丹波国人が若狭に発向する[後愚昧記].
1361 康安1 10 細川清氏,家臣頓宮・月岡・大原氏に命じて遠敷郡太良荘より兵糧米58石余を徴収し,遠敷郡玉置城に入れる[ゑ-176].
1361 康安1 10 27 若狭守護代頓宮四郎左衛門尉,若狭に逗留中の細川清氏に反旗を翻し,清氏は若狭から逃れて南朝方に降る[守護職次第,後愚昧記].
1361 康安1 11 10 三方郡耳西郷の半分地頭職が,足利義詮より京都臨川寺・天竜寺に寄進される[(2)天龍寺-4].
1361 康安1 11 17 幕府,遠敷郡太良荘における松田師行の乱妨を停止する[マ-54].
1361 康安1 11 20 神護寺領遠敷郡西津荘を加藤次郎左衛門尉が押領することを,幕府が守護に命じて禁止[(2)尊経閣文庫-26].
1362 貞治1 2 22 遠敷郡太良荘の半済が停止され,下地が引き渡される[ナ-8].
1362 貞治1 2 23 守護石橋和義家臣武田氏,遠敷郡太良荘地下代官職を東寺に望むが拒否される[タ-13].
1362 貞治1 5 3 守護家臣ヘカサキ重雄,遠敷郡太良荘は半済の地と主張し,支配のための文書提出を東寺に要求[ツ-208].
1362 貞治1 6 21 若狭国衙が遠敷郡太良荘より年貢を責め取ろうとすることを,守護石橋和義が停止する[ア-317].
1362 貞治1 8 1 大年法延,遠敷郡高成寺を稜伽院より自立した別院とし,器用の人を住持とすべきことを置文に定める[(9)高成寺-3].
1362 貞治1 8 17 安国寺であった越前長楽寺(所在地未詳)が内乱で焼失したため,新安国寺として永徳寺(所在地未詳)が指定される[(2)尊経閣文庫-27].
1362 貞治1 9 10 坂井郡河口荘大口郷公文の朝倉宗賢,同荘を押妨したとして興福寺から訴えられる[御挙状等執筆引付].
1362 貞治1 9 遠敷郡多烏・汲部浦,請負年貢40貫文のほかに山畠年貢なしとして山畠検見の停止を訴える[秦-97].
1362 貞治1 9 遠敷郡太良荘前預所阿賀丸の妹御々女,伯母賀茂氏女・快俊親子は預所職相続の権利なしと訴える[ツ-48].
1362 貞治1 11 2 三方郡小川浦刀祢松本友連,辺津浜山・俣山などを御賀尾浦刀祢大音正資に去り渡す[(8)大音正和-71].
1362 貞治1 11 29 三方郡田井保について,在国中の若狭守護石橋和義が同保の一円管領を要求[師守記].
1362 貞治1 12 3 若狭守護石橋和義,国内の地頭・御家人・寺社領の荘官らに対し,丹波出陣への参陣を命ずる[ゑ-39].
1362 貞治1 この年若狭守護石橋和義,国内の諸荘に対し半済に加えて「四分一済」を実施[ツ-53,師守記].
1362 貞治1 この年以降,遠敷郡名田荘において,長法寺氏・土屋氏などの土豪や守護家人新名繁氏の押妨が激化する[大徳寺文書,(2)土御門家-5,徳禅寺文書].
1363 貞治2 10 2 遠敷郡高成寺開山の大年法延が死去する[(9)高成寺-3].
1363 貞治2 この年今立郡長泉寺音一房が死去する[時衆過去帳].
1364 貞治3 3 26 遠敷郡税所今富名を山名時氏が獲得し,政所屋と宿をそれぞれ問の心性と道性のもとに置く[税所次第].
1364 貞治3 7 20 御々女と遠敷郡宮河の松田知基が宇治親安を表に立て,快俊親子に代わって遠敷郡太良荘預所に補任される[ツ-60].
1364 貞治3 8 18 吉田郡志比荘の本家役呉綿を東寺に納入するよう,幕府が地頭波多野朝道に命じる[ゐ-42].
1364 貞治3 10 1 足羽郡弘祥寺が諸山に列せられる[扶桑五山記].
1364 貞治3 10 10 越前の弘祥寺・善応寺・吉祥寺開祖で建仁寺住持の別源円旨が死去[扶桑五山記].
1364 貞治3 12 20 坂井郡河口荘に対する斯波高経の押領停止を興福寺衆徒が訴え,春日社の神木を入洛させる[大乗院日記目録,鎌倉年代記].
1364 貞治3 この年以前,浄土真宗高田門流の遠江国の「佐塚ノ専性」が越前に入国する[三河念仏相承日記].
1365 貞治4 2 5 春日社造営棟別銭10文が越前・若狭に賦課される[(2)春日大社-1].
1365 貞治4 6 26 遠敷郡太良保地頭方の「三分一兵粮」の徴収を命じる,斯波氏被官深町法眼の奉書が出される[タ-15].
1365 貞治4 (9) 28 幕府,足羽郡大田荘内重富保・二上社地頭職を軍勢が違乱することを止めるよう斯波義種に命じる[(2)富岡-1].
1366 貞治5 3 27 遠敷郡太良荘地頭方が守護斯波氏の摂津軍陣に不参のため,守護方給人真柄氏が荘内に入部[タ-15].
1366 貞治5 8 8 貞治の政変.将軍足利義詮が斯波高経追討の命を出し,高経は越前に逃げ下り南条郡杣山城に拠る[吉田家日次記].越前と若狭の守護にはそれぞれ畠山義深・一色範光が任じられる.
1366 貞治5 8 9 足利義詮が朝倉高景に対し,斯波高経の越前入国を阻止するよう命じる[朝倉家記所収文書].
1366 貞治5 10 24 遠敷郡太良荘における木崎弾正忠の乱妨を,幕府が停止[せ-武44].
1366 貞治5 10 若狭守護一色範光,両使として伊藤入道・遠山入道を下向させ,守護代には小笠原長房,小守護代には武田重信を任ずる[守護職次第].
1366 貞治5 11 6 朝倉高景,将軍足利義詮より足羽郡宇坂荘・東郷荘,坂井郡棗荘・坂南本郷・木部嶋,吉田郡河南下郷・中野郷を勲功の賞として与えられる[朝倉家記所収文書].
1366 貞治5 11 14 鎌倉円覚寺領の今立郡山本荘泉・船津両郷を先守護斯波高経が半済としていたことを足利義詮が停止[(2)円覚寺-13].
1366 貞治5 12 遠敷郡名田荘田村において,2人の番頭と並んで惣百姓右馬允が荘園年貢を預かる[(2)真珠庵-40].
1366 貞治5 この年良如,府中の新善光寺城跡を寺地として正覚寺を建立[太平記,大西山正覚寺開山良如上人略記].
1367 貞治6 1 20 吉田郡河北(河合)荘が守護斯波高経より没収され,醍醐寺三宝院に寄進される[(2)醍醐寺-44].
1367 貞治6 2 斯波高経に味方して安居白土岡に立て篭った千秋安居一門を,朝倉高景・氏景が攻略[朝倉家伝記].
1367 貞治6 4 20 若狭守護代小笠原長房,三方郡田井保の公文職を闕所として没収しようとする[師守記].
1367 貞治6 4 遠敷郡太良荘の前預所快俊跡が斯波高経与同人として守護一色氏に没収され,渡辺弁法眼直秀に与えられる[ハ-66].
1367 貞治6 6 26 若狭守護一色範光に対し,園城寺三門跡(円満院・聖護院・実相院)の所領を支配せよとの幕府の命令が出される[師守記].
1367 貞治6 7 13 斯波高経が南条郡杣山城で病死する[師守記].
1367 貞治6 7 26 若狭守護代小笠原長房により没収されていた三方郡田井保公文職を,領主中原師茂が守護と交渉し回復[師守記].
1367 貞治6 8 30 斯波義将が越前から上京する[師守記].
1367 貞治6 9 4 上洛した斯波義将,将軍足利義詮に対面し赦免される[師守記].
1367 貞治6 10 14 春日社領大野郡泉荘・小山荘を朝倉高景らが乱妨することを,幕府が守護に命じて禁止[(2)尊経閣文庫-29].
1367 貞治6 10 17 深町備後守・真柄左衛門大夫,今立郡真柄荘についての朝倉高景の預け状があると称して守護畠山義深の遵行に従わず[(2)保坂潤治-3].
1368 応安1 4 8 越前守護畠山義深が越前に赴く[花営三代記].
1368 応安1 4 遠敷郡太良荘における渡辺直秀の預所分押領返付と半済停止を,東寺が幕府に求める[し-39].
1368 応安1 6 17 幕府,応安の半済令を発する[建武以来追加].
1369 応安2 1 15 遠敷郡安賀荘で延暦寺子院の金輪院が守護方に抵抗したため,守護代小笠原長房が押し寄せて合戦となる[守護職次第].
1369 応安2 11 15 敦賀郡野坂荘櫛川郷地頭山内(藤原)重経,同郡西福寺に敷地を寄進する[(8)西福寺-4].
1369 応安2 この年良如,敦賀郡西福寺を建立[中野物語,越前三門徒法脈].
1370 応安3 8 6 幕府,守護一色氏に対し,遠敷郡太良荘の半済停止を命じる[せ-武46].以後も1426年まで繰り返し停止令が出される[ノ-183].
1370 応安3 10 1 今立郡杉前三か村が,綸旨により祇園社造営領として寄進される[(2)八坂神社-6].
1370 応安3 12 30 若狭守護方が三方郡山東・山西両郷を闕所とし,差し押さえのため派遣した守護使壱岐太郎が戦死[守護職次第].
1371 応安4 1 2 若狭守護代小笠原長房,西津の守護所を発ち三方郡に押し寄せ,菅浜・能登野で国人方と合戦(7日まで)[守護職次第].
1371 応安4 4 14 国人一揆方の拠る遠敷郡宮河城に守護方が夜討ちをかけ,武永入道を討取り,在所を焼払う[守護職次第].
1371 応安4 5 26 若狭守護方が遠敷郡野木山に布陣のところ,国人一揆方が玉置荘に討ち入ったため玉置河原で決戦となり,国人一揆方が敗れる[守護職次第].
1371 応安4 8 3 醍醐寺三宝院領吉田郡河北荘(河合荘)の先所務代官山徒西縄坊につき,同荘の番頭・百姓たちが先年の悪行五か条を挙げて同人の再任を拒否する[(2)醍醐寺-60].
1371 応安4 12 25 幕府,曽我道昌に遠敷郡名田荘を宛行う[(2)松雲公-6].
1372 応安5 5 2 朝倉高景が死去する[日下部系図,朝倉系図略].
1372 応安5 7 吉田郡河合荘貞正名用水堤を春近郷千秋経季の代官が違乱し,同荘の用水の磯部荘内小太郎堤を切り落としたとして醍醐寺から訴えられる[(2)醍醐寺-61].
1372 応安5 この年永平寺,「日本曹洞第一道場」との勅額・綸旨が下されて勅願所となるが,文明5年甲斐氏と朝倉孝景との戦乱でこれらが焼失したという[(4)永平寺-14]./芳庵祖厳が丹生郡願成寺を開く.
1373 応安6 5 19 幕府,遠敷郡太良荘の半済停止を守護一色範光に命令[せ-武48].
1373 応安6 (10) 10 三方郡耳西郷・加賀国大野荘の年貢を,若狭東口御服所関(大杉関)で支障なく勘過させるよう命令が出される[(2)天龍寺-12・13].
1373 応安6 12 吉田郡志比荘地頭波多野朝道代官,東寺への本家役呉綿は地頭からでなく,領家からの負担であると弁明する[ル-67].
1374 応安7 3 3 遠敷郡多烏浦の天満宮神事頭役について,頭人2人のところ,片頭として9歳の男子1人が勤めることとされる[秦-99].
1374 応安7 11 2 南条郡杣山荘内阿久和・抽尾・宅良などの村が,綸旨により中御門宣方に安堵される[(2)柳原家記録-7].
1375 永和1 4 26 遠敷郡太良荘百姓,代官教実の注進した不作・河成地は現在も耕作していないことを起請文で誓約[ハ-80].
1375 永和1 11 23 坂井郡崎浦に来着した睿憲が「三国湊性海寺談所」において論書を書写する[滝谷寺蔵二教論私聞書後書].
1376 永和2 8 遠敷郡矢代浦,年貢加増の命令に対し,当浦は磯辺で田畠も少なく漁業も生活の資に不足と訴える[(9)栗駒清左ヱ門-5].
1376 永和2 10 吉田郡志比荘の本家役呉綿を地頭の波多野朝道が納入するよう,東寺が幕府に訴える[さ-48].
1377 永和3 6 11 若狭守護一色氏,小浜八幡宮と若狭一・二宮の流鏑馬役を,国内の御家人役として地頭職所有者に課す[し-220].
1377 永和3 10 17 今立郡杉前三か村に対する,岸五郎左衛門尉以下の乱妨を幕府が停止する[八坂神社記録].
1378 永和4 6 15 今立郡杉前三か村に対する延暦寺根本中堂雑掌等の違乱が,後円融天皇綸旨により停止される[八坂神社記録].
1378 永和4 12 24 遠敷郡太良荘公文弁祐・代官有円,税所代海部信泰への放生会流鏑馬免除工作資金の使用には不正なしと誓約[ハ-81].
1379 康暦1 (4) 28 斯波義将が管領職に就く[花営三代記].
1379 康暦1 12 幕府,小浜津馬足課役免除の綸旨を税所山名時氏に示し,臨川寺年貢を煩いなく勘過させる[(2)天龍寺-14].
1380 康暦2 1 27 越前で伊知地左近将監が死去する[花営三代記].
1380 康暦2 2 遠敷郡太良荘が日吉造替段銭の免除を訴える[ツ-74].
1380 康暦2 12 6 本郷氏,本郷役夫工米の京済を幕府より許される[(2)本郷-61].
1380 康暦2 この年斯波義将,越前守護畠山氏との間で越前・越中の守護職を交換する.
1381 永徳1 5 18 三国湊廻船交易関所を三国湊の住人深町・北村・島津一族が押妨することを停止[(2)桂宮家-1].
1381 永徳1 6 6 東寺修造費として,越前に棟別10文を賦課[(2)東寺文書-2].
1381 永徳1 6 15 三方郡耳西郷内の地頭天龍寺・臨川寺支配の新田・新開を領家が違乱することを,幕府が禁止[(2)天龍寺-16].
1381 永徳1 この年遠敷郡国富荘で守護一色氏により半済が行われる[壬生家文書].
1382 永徳2 3 21 京都東福寺善一,遠敷郡太良荘領家方所務職を年貢の5分の1を得分とする契約で請け負い,長田弾正蔵人を代官とする[ヌ-30].
1382 永徳2 4 7 坂井郡滝谷寺の寺院法(17か条)が,住持睿憲により制定される[(4)滝谷寺-1].
1382 永徳2 6 19 守護一色氏,遠敷郡太良荘に野伏15人の提供を命じる[ハ-86].
1383 永徳3 3 18 三方郡織田荘が山門青蓮院門跡領とされる[華頂要略].
1383 永徳3 8 4 吉田郡河北(河合)荘番頭百姓ら,先公文来迎院らを荘官に任じれば逃散すると領主醍醐寺に訴える[(2)醍醐寺-71].
1383 永徳3 10 25 若狭税所,遠敷郡竹原天満宮六口供僧職田についての天満宮祢宜の主張を退け,羽賀寺に安堵する[(9)羽賀寺-9].
1384 至徳1 12 11 今立郡山本荘について,春屋妙葩が同荘に対する青蓮院の権限を買得して円覚寺に寄進し,円覚寺一円所領とする[(2)円覚寺-19].
1385 至徳2 6 吉田郡志比荘地頭の波多野通郷,同荘は延文年中より幕府厩料所となり,東寺への本家役はないと反論[さ-57].
1385 至徳2 この年気比社の直務支配が行われていた南条郡今庄関所が,守護の要請により,年間50貫文の関料を納入する請所支配となる[気比宮社伝旧記].
1386 至徳3 9 3 大飯郡本郷詮泰,幕府より丹後国則松保地頭職を与えられる[(2)本郷-62].
1387 嘉慶1 6 7 比叡山衆徒により京都妙顕寺が破却され,妙顕寺住持日霽が小浜へ走る.
1387 嘉慶1 6 丹生郡天王社(八坂神社)の6月の祭礼において,15日に獅子舞・八乙女・田楽が,16日に幸若の舞三番が定められている[(5)進止正-2].
1387 嘉慶1 10 15 若狭に賀茂造営・公家進等要脚段銭が賦課される[教王護国寺文書].
1387 嘉慶1 11 10 大野郡牛原荘丁郷の半済給人安居備前守,丁郷・井野部郷の日吉社段銭免除状を獲得されるよう,領主醍醐寺に告げる[(2)醍醐寺-73].
1387 嘉慶1 この年天真自性が南条郡慈眼寺を開創[慈眼寺由緒覚]./天徳曇貞が丹生郡宗生寺を開創.
1388 嘉慶2 1 25 一色範光が死去する[兼宣公記].
1388 嘉慶2 5 14 春日社領大野郡泉荘・小山荘領家職の村々の半済分が,興福寺に打ち渡される[(2)一乗院-13].
1388 嘉慶2 11 14 越前守護斯波義将の申請により,坂井郡豊原寺領が足利義満から安堵される[(4)豊原春雄-1].
1389 康応1 2 28 若狭守護一色氏が守護不入地の三方郡耳西郷で百姓を捕え耕作を妨げることを,幕府が停止[(2)天龍寺-17].
1389 嘉慶2 この年斯波義将,坂井郡豊原寺の深沙大王宮拝殿造立を立願[(4)豊原春雄-1].
1390 明徳1 2 13 葉室宗顕,後円融上皇から足羽郡和田荘の知行を安堵される[(2)東山御文庫記録-14].
1390 明徳1 5 遠敷郡太良荘地頭方在家百姓,守護夫役の家別賦課に反対し,在家百姓は地下平民の役は負担せずと主張[ハ-94].
1390 明徳1 7 24 敦賀郡西福寺が,後円融上皇の勅願所となる[(8)西福寺-12].
1390 明徳1 9 15 足利義満が敦賀郡気比社参詣のため京都を発つ[東寺王代記].
1391 明徳2 3 12 斯波義将が管領職を辞し,越前に下向する[鎌倉年代記,東寺王代記].
1391 明徳2 9 28 坂井郡金津の神宮護国寺と同郡兵庫郷の大善寺・長福寺が,西大寺の末寺としてみえる[(2)極楽寺-1].
1391 明徳2 11 3 守護一色詮範,本郷詮泰に大飯郡本郷国衙職を返付[(2)本郷-68].
1391 明徳2 12 一色範光の子詮範,若狭守護となり税所今富名を得る.また,代官小笠原浄鎮・又代官武田浄源,小浜の問の左衛門三郎の宅を宿とし政務を執る[守護職次第,税所次第].
1391 明徳2 この年斯波義将,坂井郡豊原寺に同郡長畝郷の料所半済を寄進して「氏寺」としたと伝えられる[(4)豊原春雄-1]./曹洞宗
山・実峰派の大統一祐,三方郡向陽寺を建立し,同寺は若狭最初の曹洞宗寺院となる[日本洞上聯燈録].
1392 明徳3 2 3 敦賀郡野坂荘櫛川郷地頭山内将経,西福寺に田地を寄進[(8)西福寺-13・14].
1392 明徳3 (10) 5 後亀山天皇,後小松天皇に神器を渡す(南北朝の合一)[続神皇正統記].
1393 明徳4 5 18 将軍足利義満,若狭を訪れる[税所次第].
1393 明徳4 6 5 斯波義将,管領となる[執事補任次第].
1393 明徳4 6 17 藤原信昌・将広親子,丹生郡剣神社を修理し,神領に私の課役を停止するなど神社興隆の置文を定める[(5)劒神社-1].
1393 明徳4 9 4 越前守護斯波氏,坂井郡三国湊本湊を興福寺に引き渡す[坪江郷奉行引付].
1393 明徳4 11 15 若狭守護一色詮範,遠敷郡名田荘上村の段銭を免除[(2)若杉家-3].
1394 応永1 この年大草道忠,華陽和尚を招き,大飯郡青郷に大成寺を建立[若州管内社寺由緒記].
1395 応永2 2 3 敦賀郡野坂荘櫛川郷地頭山内将経,郷内の山林・田畠地を西福寺敷地として寄進し,敷地差図を添える[(8)西福寺-19].
1395 応永2 8 15 斯波氏重臣甲斐教光の子将教,将軍足利義満から足羽郡大土呂・稲津保・河北などの所領を安堵される[(2)醍醐寺-74].
1395 応永2 9 19 足利義満,若狭を訪れる(2度目)[税所次第].
1395 応永2 11 12 熊野御師しやうちやういん,越前などの朝倉氏についての旦那職を質入れする[(2)熊野那智大社-2].
1395 応永2 11 22 醍醐寺領大野郡牛原荘井野部郷において,半済が停止される[(2)醍醐寺-75].
1395 応永2 この年守護一色氏が遠敷郡太良荘年貢の10分1を収取[フ-73].
1396 応永3 3 28 越前守護斯波義将,敦賀郡善妙寺の寺領を安堵[(8)善妙寺-3].
1396 応永3 5 24 興福寺大乗院門跡,坂井郡坪江下郷阿古江内出来島に対する湊津方の違乱を停止[坪江郷奉行引付].
1396 応永3 12 遠敷郡太良荘の荘民ら,水害による捨田の年貢の減免などを要求して逃散[ツ-88].
1396 応永3 この年不見明見,今立郡興禅寺(武生市)を開創[日本洞上聯燈録].
1397 応永4 3 8 河崎光信,逃散した遠敷郡太良荘百姓の還住を促すために代官を下すよう,東寺公文所に要求[オ-96].
1397 応永4 6 11 遠敷郡小浜八幡宮の鐘が願主若狭守護代小笠原長房(浄鎮),大工金屋来阿により鋳造される[日本古鐘銘集成].
1397 応永4 9 17 小笠原長春,守護代と税所・今富名又代を兼ねて小浜に居住[税所次第].
1398 応永5 6 13 若狭で守護段銭が徴収される[ア-111].
1398 応永5 9 藤原重吉,三方郡二十八所社の上葺料として山西郷内段銭を充てる[(8)園林寺-31].
1399 応永6 4 8 阿古女,自己の財をもって敦賀郡櫛川郷地頭山内将経より4段の田地を獲得し,一期の後は西福寺に寄進すると約束する[(8)西福寺-26].
1399 応永6 6 25 若狭今富名代官小笠原長春,同名の里方名・散田・寺社・人給の農民の逃散により同名代官職を解任される[税所次第].
1399 応永6 8 25 若狭今富名代官に石河長貞が就任し,又代官として片山行光(光蓮)が若狭に入部[税所次第].
1399 応永6 12 12 将軍義満,本郷詮泰に若狭敵方の討伐を命令[(2)本郷-74].
1400 応永7 6 8 小浜八幡宮の造替遷宮に税所代海部理泰が勅使を務める[若狭国志].
1400 応永7 8 6 後小松天皇,入江殿に坂井郡坂北荘の長畝・高椋・舟寄などの郷々の知行を保証し,勧修寺経豊を奉行に定める[(2)尊経閣文庫-30].
1400 応永7 12 遠敷郡西津荘多烏・汲部両浦の百姓,代官時衆僧による滞在中の過分の接待費徴収を不当として訴える[秦-104].
1400 応永7 この年幕府への功により,三方郡倉見荘が奥州探題の大崎満持に与えられる[余目氏旧記].

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