Fukui Prefectural Archives

福井県史年表

Chronology

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1301~1350年

西 暦 和 暦 事 項
1301 正安3 6 3 気比社政所,秦正吉を敦賀郡手浦刀祢職に補任し,刀祢負担分の公事を定める[(8)秦実-1・2].
1301 正安3 9 僧永俊,坂井郡坪江郷阿古江薬師堂別当職田畠を代銭10貫500文で薬師殿に売却[成簀堂文庫古文書叢鑑].
1301 正安3 11 越前国轆轤師の兄部職に,平助守と海恒重が任じられる[(6)大河内区有-1].
1301 正安3 この年若狭国が女院(偉鑑門院か)の分国となる[ゑ-29]./敦賀郡西方寺に時宗の他阿真教が寄留し,気比社に参篭[遊行上人縁起絵].
1302 乾元1 4 遠敷郡太良荘の百姓国友,補任料の納入を東寺供僧に約束し,同荘助国名主に補任される[ユ-19,ヱ-42].
1302 乾元1 この年7月以後,若狭忠兼がすべての所帯を没収され,遠敷郡太良荘地頭職などは得宗領とされる[ユ-28].
1302 乾元1 10 遠敷郡太良荘で得宗の検注使による検注が行われ,実検名寄帳が作成される[教王護国寺文書].
1303 嘉元1 3 大飯郡黒駒社神主職に友春女が補任される[(8)大音正和-16].
1303 嘉元1 4 1 坂井郡坂南本郷の北方半分から運送した八幡上分米50石のうち,足羽升米・気比升米・祇園升米などとして計3石が除分として差し引かれる[(2)吉田-1].
1304 嘉元2 2 8 御家人松田十郎頼成,遠敷郡志積浦刀祢の安倍景延らが同浦地頭の権威を背景に命令に従わないことを六波羅探題に訴える[(9)安倍伊右衛門-10].
1304 嘉元2 4 2 遠敷郡太良荘得宗給主の工藤貞景,検注により荘内とされた馬上免田畠への違乱停止を恒枝保給主塩飽氏に求める[ゑ-12].
1304 嘉元2 4 遠敷郡多烏浦,国御家人鳥羽氏と結ぶ汲部浦による須那浦・多汲(谷及)網場への乱妨停止を訴える[秦-43].
1304 嘉元2 5 遠敷郡太良荘領家の東寺が得宗地頭の非法を訴え,六波羅探題において裁判が開始される[教王護国寺文書].
1304 嘉元2 9 3 遠敷郡多汲の志美網につき,多烏・汲部浦で縄網・夜網は1側宛て,立網は寄合とする永仁4年和与が確認される[秦-44].
1304 嘉元2 9 遠敷郡太良荘百姓,損田注文を提出し年貢免除を願う[ヱ-20].
1305 嘉元3 1 15 三方郡二十八所社の修正会の内陣に出仕する25人は空衣・下沓を用い,威儀を整えることが定められる[(8)園林寺-13].
1305 嘉元3 7 今立郡西谷荘・酒井荘について,亀山法皇が尊治親王(後醍醐天皇)の母藤原忠子(談天門院)の知行とし,のちに親王に伝えられるべきことを定める[(2)亀山院御凶事記-2].
1305 嘉元3 9 遠敷郡太良荘の農民ら,早田・中田・晩田の損害を領家東寺に訴え,損亡分として9石の年貢免除を認めさせる[ヱ-28,は-40].
1305 嘉元3 この年若狭守護に大仏宣時,守護代に渋谷宗重が任ぜられる[守護職次第].
1306 徳治1 6 他阿真教,心性・有重父子に「一遍絵伝」を描かせる[奉納縁起記].
1306 徳治1 8 藤原兼範(千秋氏),丹生郡大谷寺に弘法大師御影供料田を寄進[(5)越知神社-6].
1306 徳治1 10 10 遠敷郡太良荘百姓,旱魃・洪水・大風の被害による年貢免除を8月以来要求し,20石の損免を領家東寺より得る[う-9].
1306 徳治1 この年関東御免の津軽船20艘のうち,越中国東放生津の沙弥本阿の大船が坂井郡崎浦に停泊したところ,同郡三ケ浦(梶・崎・安島浦)の預所や刀祢が漂倒船と称して積載物を没収する[大乗院文書].
1307 徳治2 この年大野郡牛原荘井野部郷の米年貢はほぼ銭納で,また絹製品の一部も銭で納入される[(2)醍醐寺-38].
1307 徳治2 この年以降,敦賀津の関料が,5年を限り京都醍醐寺・祇園社と奈良西大寺の修理料に充てられる(1311年まで)[(2)西大寺-4].
1308 延慶1 (8) 23 又いし等使者両人が日吉十禅師社上分15貫文を借り,敦賀郡常宮八講田を本銭返契約で売る[(8)永建寺-1].
1309 延慶2 4 丹生郡大谷寺,得石御子橘氏女を八乙女神人に補任[(5)越知神社-7].
1309 延慶2 9 14 徹通義介が死去する[延宝伝灯録].
1309 延慶2 この年若狭が得宗北条貞時の分国に復し,工藤二郎左衛門尉貞祐が守護代となる[守護職次第].
1310 延慶3 4 8 遠敷郡明通寺,幕府より異国降伏のための祈祷を命じられる[(9)明通寺-7].
1310 延慶3 4 8 三方郡倉見荘地頭の二階堂氏,荘内の御賀尾浦に諏訪社を勧請[(8)大音正和-27].
1310 延慶3 4 11 小浜津に魚仙という人魚が現われたという[斑鳩嘉元記].
1310 延慶3 6 大飯郡本郷の地頭本郷泰景,山田女房に本郷内田地5町,居屋・屋敷地と丹生郡武重内田地2町を譲渡する[(2)本郷-8].
1311 応長1 2 7 遠敷郡多烏・汲部両浦で,年貢・公事の代銭納40貫文による地下請が行われる[秦-53~55].
1311 応長1 5 越前に下向した京都本願寺覚如と子息存覚,20日あまり足羽郡専修寺如道のもとに逗留し,「教行信証」を伝授[存覚上人一期記].
1311 応長1 9 17 三方郡山西郷の荘官・番頭,郷内7町4段余の仏神田を公事免除の地とし,恒例の祈祷料に宛てる[(8)園林寺-16].
1312 正和1 10 遠敷郡太良荘百姓,同荘は大河(北川)・東河(松永川)・遠敷河の三大河水の合流点なので損亡が激しいと主張して,損免を要求[ヱ-35].
1313 正和2 9 20 敦賀津桝米を,西大寺四王院と祇園社に明年から5か年重ねて寄付するという院宣を幕府が施行[(2)西大寺-10].
1313 正和2 11 今立郡池田荘の王神に対し,同荘の地頭代・公文が神田を寄進[(6)梅田雅文-1].
1314 正和3 3 3 丹生郡大谷寺の小白山社の八講で,猿楽が上演される[(5)越知神社-8].
1314 正和3 4 8 遠敷郡明通寺に対し,京都六波羅探題の金沢貞顕が北条貞時らの菩提のために法華経を奉納[(9)明通寺-8].
1314 正和3 10 15 若狭が山門の知行国となる.遠敷郡太良荘は一時国衙領となるも院宣により安堵される[ウ-21].
1314 正和3 11 26 三方郡御賀尾浦地頭,刀祢の訴えた古津越え・和布代銭納・百姓跡塩山年貢塩・損亡について下知[(8)大音正和-29].
1314 正和3 12 2 義雲,大野郡宝慶寺から永平寺に入院[(7)寳慶寺-3].
1314 正和3 この年以降,興福寺領坂井郡坪江郷の上郷においては「平泉寺神物」を,下郷においては「日吉厳重神物」を「借下」げて年貢を納入する(1318年まで)[御講米等引付].
1315 正和4 3 15 坂井郡細呂宜郷の八幡宮宮司の則永が地頭と結び,領主興福寺に背いて宮司を罷免される[雑々引付].
1315 正和4 4 14 坂井郡三国湊の交易上分は,内侍所沙汰人と興福寺雑掌が均等の徴収をせよとの院宣に従うよう,興福寺大乗院門跡が命じる[雑々引付].
1315 正和4 6 興福寺,金津八日市人を金津神宮護国寺と新春日社造営のために寄進し,金津阿弥陀寺の浄賢が造営を進める[雑々引付].
1316 正和5 2 2 坂井郡坪江郷北金津八日市道仙房・河口荘内南金津木下西信房ら,加賀江沼郡菅生敷地地頭狩野氏の所務代下人を金津上野で殺害し,銭貨などを奪う[雑々引付].
1316 正和5 3 20 遠敷郡矢代浦住人栗駒宗延・延永と坂井郡三国湊の住人が紛争をおこす[雑々引付].
1316 正和5 5 坂井郡三国湊における津料徴収が幕府の文永以後新関停止令に背くとして,幕府の使者が入部[雑々引付].
1316 正和5 8 坂井郡坪江郷内で国司津料の徴収を禁止することを,興福寺大乗院門跡が命じる[雑々引付].
1316 正和5 9 18 三方郡御賀尾浦地頭,百姓の訴えた未進年貢・百姓跡公事の3か年免除・諏訪社贄狩などについて下知[(8)大音正和-33].
1316 正和5 9 25 坂井郡三国湊付近で坪江郷住人深町式部大夫が悪党を率い,津料に事寄せて日吉十禅師神人を殺害したとして,訴えられる[雑々引付].
1316 正和5 (10) 15 敦賀津升米を京都祇園社神輿の造替料所として,この年から6か年同社に寄付するとの院宣が発せられる[(2)西大寺-12].
1316 正和5 (10) 18 遠敷郡松永保地頭多伊良能信,同郡明通寺へ田畠1町5段を寄進する[(9)明通寺-9].
1316 正和5 11 三方郡常神浦の乙王女,父が自分と母に譲与した家内財宝・大船(フクマサリ)などを異母兄忠国が押領したと訴える[(8)大音正和-34].
1317 文保1 3 18 丹生郡大谷寺の明年三月会法華八講料の奉加地として,足羽郡が差定される[(5)越知神社-10].
1318 文保2 3 9 敦賀郡手浦の塩釜を,三方郡日向浦の人が公事塩5石で請け負う[(8)秦実-8].
1318 文保2 9 10 三方郡御賀尾浦で,百姓たちが地頭に対し要求していた和布・塩・鮨桶の代銭納の廃止が,地頭の在鎌倉を理由に拒否される[(8)大音正和-37].
1318 文保2 この年後醍醐天皇が即位し,若狭はその母談天門院の分国となる[イ-25].
1319 元応1 1 27 他阿真教が死去する[他阿上人法語].
1319 元応1 2 26 遠敷郡太良荘の内御堂(薬師堂)の修理の功により,小浜の高利貸石見房覚秀がこの堂の別当職に任じられる[ヤ-17].
1319 元応1 8 29 坂井郡三国湊内上野の開発を興福寺大乗院門跡が許可し,3か年の年貢を免除する[雑々引付].
1320 元応2 3 29 三方郡御賀尾浦地頭,百姓の訴えた逃亡・死亡百姓跡には沙汰人が新百姓を入れ,年貢を負担せよと下知[(8)大音正和-34].
1320 元応2 8 1 遠敷郡明通寺の三重多宝塔上葺の勧進が行われる[(9)明通寺-11].
1320 元応2 12 13 丹生郡居蔵浦刀祢職に国利が補任される[(5)山本重信-1].
1321 元亨1 3 15 足羽郡木田荘への討入りと刈田以下の狼藉を訴えられた守護代寂阿の召喚が,六波羅探題から越前守護後藤氏に命じられる[(2)保阪潤治-2].
1321 元亨1 9 6 島津道義(忠家),嫡子貞久に越前守護職の替わりを申請せよと伝え残す[島津家文書].
1321 元亨1 11 5 遠敷郡太良荘助国名主らの未進米銭を,小浜の高利貸石見房覚秀とその母が熊野社の初穂物で立て替え,同名半名を得る[ユ-32].
1322 元亨2 3 17 本郷隆泰,大飯郡本郷地頭職などを本郷貞泰に譲与[(2)本郷-10].
1323 元亨3 10 9 遠敷郡太良荘が国衙より濫妨されたことにつき,同荘を国衙に付けたことはないとの綸旨が出される[文化庁所蔵文書].
1324 正中1 8 北条氏得宗高時,若狭守護となる[守護職次第].
1324 正中1 この年吉田郡志比荘の本家職が東寺に寄進される[せ-武9].
1325 正中2 12 30 吉田郡志比荘の最勝光院寺用分の直納を,後醍醐天皇が地頭波多野氏に命じる[こ-51].
1326 嘉暦1 2 27 尼了心,亡夫の追善と自分の後生菩提のため,遠敷郡武成名内田地1町を同郡神宮寺へ寄進[(9)神宮寺-5].
1326 嘉暦1 11 12 吉田郡志比荘地頭波多野通貞に,東寺に対し本家役呉綿1,000両を直納せよと六波羅探題が裁決[せ-武9].
1326 嘉暦1 この年坂井郡豊原寺と大野郡平泉寺が相論する[(4)豊原春雄-1].
1327 嘉暦2 8 24 吉田郡永平寺五世義雲,同寺の梵鐘を鋳造[永平寺梵鐘銘].
1327 嘉暦2 10 10 遠敷郡名田荘和多田村の河手(関銭)が年額60貫文と見積られ,同荘内の地と交換される[大徳寺文書].
1328 嘉暦3 2 6 遠敷郡谷及・須那浦・手井浜におけるふくらぎ漁の網場について,同郡の汲部浦と多烏浦の「うちかえ」を公文が規定[秦-68].
1328 嘉暦3 2 18 大野郡小山荘地頭の伊自良知綱の代官,荘内の郷々の所務を請負い,悪党大納言房の退治を約束[(2)一乗院-5].
1329 元徳1 4 11 後醍醐天皇,蓮華王院領の遠敷郡名田荘内須恵野村の知行を,花山院兼信に認める[(2)真珠庵-7].
1330 元徳2 9 28 坂井郡豊原寺の塔供養が行われる[(4)豊原春雄-1].
1330 元徳2 11 遠敷郡西津荘地頭方の塩浜3町余が,公文より注進される[(8)大音正和-48].
1331 元徳3 2 26 敦賀郡気比社,後醍醐天皇より造営料として敦賀津升米などを15年間知行することを認められる[(2)竹内文平-2,華頂要略].
1331 元徳3 3 2 遠敷郡小浜の高利貸石見房覚秀,同郡太良荘助国名主職に補任される[ユ-32].
1331 元徳3 3 3 遠敷郡松永荘地頭の惟宗(多伊良)能泰,田地6段を同郡明通寺に寄進[(9)明通寺-13].
1331 元徳3 8 24 後醍醐天皇,神器を奉じて都を落ち,27日に山城笠置寺に入る[増鏡].
1331 元徳3 10 3 三方郡常神浦が,御賀尾浦で小松を切り取ることを禁止される[(8)大音正和-47].
1332 正慶1 3 7 幕府,後醍醐天皇を隠岐に流す[武家年代記].
1332 正慶1 3 遠敷郡西津荘畠地検注目録が公文より注進される[(8)大音正和-48].
1333 正慶2 (2) 24 後醍醐天皇,隠岐を脱出し,翌日伯耆の名和長年に迎えられる[増鏡].
1333 正慶2 5 7 足利高氏,後醍醐天皇に応じ六波羅を攻め滅ぼす[増鏡].
1333 正慶2 5 12 大野郡牛原荘地頭の淡河時治,同郡平泉寺衆徒の攻撃を受け自害[北条系図,太平記].
1333 正慶2 5 15 大飯郡加斗荘の黒駒宮神主上野房恵尊,六波羅攻めに参戦する[(8)大音正和-49].
1333 正慶2 5 22 新田義貞の鎌倉攻略により,鎌倉幕府滅ぶ[増鏡].
1333 正慶2 5 26 遠敷郡明通寺,後醍醐天皇より祈祷所に指定される[(9)明通寺-15].
1333 正慶2 5 29 遠敷郡国富荘の得宗地頭職が,後醍醐天皇から官務小槻匡遠に寄進される[壬生家文書].
1333 正慶2 6 4 後醍醐天皇,帰京[公卿補任].
1333 正慶2 6 7 坂井郡三国湊における因幡阿闍梨以下の悪党による強盗・殺害・刃傷事件が,興福寺に報告される[建武元年記].
1333 正慶2 7 2 遠敷郡太良荘の得宗の地頭職が,後醍醐天皇から京都東寺に寄進され,同荘は東寺の本所一円の地となる[せ-南10].
1333 正慶2 8 5 中御門宗重,越前国司となる[公卿補任,尊卑分脈].
1333 正慶2 8 10 洞院公賢,若狭国司となり,旧得宗領税所今富名の領主を兼ねる[税所次第].
1333 正慶2 10 12 永平寺五世義雲が死去し,その後門弟の曇希が同寺の住持となる[延宝伝灯録].
1333 正慶2 11 7 遠敷郡太良荘前地頭の若狭直阿(忠兼)が同荘に乱入し,使者の本郷貞泰と三方貞清の入部を拒む[ヱ-41].
1333 正慶2 12 南条郡大塩保八幡社の神主清原泰景,国衙検注費用と称する地頭の新税要求に抗議して,本所に訴える[(6)大塩八幡宮-2].
1334 建武1 2 債務のため遠敷郡太良荘時沢名主正弘のもとに売却されていた時真が徳政と称して逃脱し,名田の回復を訴える[は-98].
1334 建武1 3 24 今立郡山本荘における湯浅次郎左衛門尉の押領を退けるよう,雑訴決断所が越前守護新田貞義に命じる[(2)円覚寺-7].
1334 建武1 3 遠敷郡太良荘に討ち入った渡辺中務丞と若狭直阿が,悪党人として訴えられる[ツ-22,ウ-146].
1334 建武1 5 遠敷郡太良荘民,「明王聖主」の代になったにもかかわらず,得宗時代より同荘の年貢負担が重くなったことを領家東寺に訴える[ツ-23].
1334 建武1 8 21 遠敷郡太良荘において,同荘地頭代脇袋頼国排斥のために59人の百姓が連署起請文を作成し,惣百姓一揆を結ぶ[は-86].
1334 建武1 8 越前権守に冷泉定親が任じられ,翌2年5月まで在任[公卿補任,尊卑分脈].
1334 建武1 9 13 伊賀兼光,若狭国司となる[税所次第].
1334 建武1 9 吉田郡藤島荘上・下郷が,新政府の越前守護斯波高経により山門雑掌に打ち渡される[(2)武田健三-1].
1334 建武1 11 21 遠敷郡太良荘寺家倉本百姓角大夫の居宅を在庁田中掃部助入道らが襲撃し,米銭・直垂・小袖などを奪い去る[は-87].
1334 建武1 11 27 遠敷市庭において,守護代信景らが太良荘百姓の銭・絹・布などを奪い取る[は-90].
1335 建武2 1 坂井郡河口荘新郷政所に,上御使熊谷・国司代片上弥次郎右衛門・守護代島田平内太郎・坪江郷住人らが乱入[建武応永引付].
1335 建武2 2 14 興福寺大乗院,坂井郡坪江上郷別納地について,同地の名主などが現地代官の年貢催促は受けないとして抵抗することをやめさせる[建武応永引付].
1335 建武2 2 23 坂井郡坪江郷の国人の瓜生と野地が昨年合戦に及んだため,領主興福寺大乗院が野地に弁明を求める[建武応永引付].
1335 建武2 3 3 遠敷郡多烏・汲部浦,勅使に従い悪党退治に忠節を尽くしたことにより年貢銭のうち2貫文を免除される[秦-78].
1335 建武2 4 15 遠敷郡太良荘に対する若狭直阿らの乱妨を停止すべき旨の雑訴決断所牒が下される[ゐ-18].
1335 建武2 7 5 小浜住人石見房覚秀母子が遠敷郡太良荘内で掘り出した銭25貫文の配分をめぐり,領家東寺内で争論となる[ヱ-330].
1335 建武2 7 23 北条高時の子北条時行の鎌倉進攻により,足利直義,護良親王を殺し西走(中先代の乱)[梅松論].
1335 建武2 11 19 朝廷,足利尊氏・足利直義追討軍を派遣する[元弘日記裏書].
1335 建武2 12 27 足利尊氏,本郷貞泰に対し,若狭の地頭・御家人を動員して新田義貞軍を迎撃するよう命じる[(2)本郷-11・12].
1336 建武3 2 7 坂井郡一品田の合戦において,北朝方に属した斎藤岡本利親と若党5人が討死[(2)松雲公-1・2].
1336 建武3 3 坂井郡伊井城あたりで志村などが狼藉に及んだので,足利尊氏が大草伊豆守を遣わして鎮圧させる[弘文荘所蔵文書].
1336 建武3 3 20 足利尊氏,本多右馬允に越前国内の南朝方討伐を命ずる[弘文荘所蔵文書].
1336 建武3 5 25 足利軍,兵庫湊川で大勝.楠木正成が戦死する[梅松論].
1336 建武3 6 3 足利尊氏,本郷泰光に対し,若狭の地頭御家人等を動員して新田義貞以下の南朝方を討つよう命じる[(2)本郷-13].
1336 建武3 7 25 北朝方斯波時家,遠敷郡脇袋・三宅・和久里・多田・河崎を焼き,小浜に入部[守護職次第,(2)朽木家-1~3].
1336 建武3 8 12 大野郡羽生新庄・下庄地頭職が,守護斯波高経より岡本利親の子息松龍丸に安堵される[(2)松雲公-1・2].
1336 建武3 8 28 南朝方と北朝方が三方郡能登野で戦い,ついで翌日遠敷郡吉田河原で戦う[守護職次第,(9)明通寺-26].
1336 建武3 9 4 北朝方斯波時家,小浜の南朝方を攻撃して大飯郡勢坂に進み,同19日には同郡谷田部坂で戦う[(9)明通寺-26].
1336 建武3 10 13 敦賀郡金ケ崎城に,新田義貞と恒良・尊良両親王らが入る[太平記].
1336 建武3 10 14 南朝方の将脇屋義助らの軍勢,敦賀津から南条郡杣山に移る[太平記].
1336 建武3 11 7 足利尊氏,「建武式目」を定める[建武式目].
1336 建武3 12 21 後醍醐天皇,神器を奉じて吉野に逃れる(南北朝となる)[皇代略記].
1337 建武4 1 1 北朝方の高師泰,大軍を率いて敦賀に入る[太平記].
1337 建武4 1 18 敦賀で北朝軍と南朝軍が本格的に合戦[(2)諸家文書纂-1].
1337 建武4 2 5 新田義貞,敦賀郡金ケ崎城を脱出し,南条郡杣山城に入る[太平記].
1337 建武4 2 12 金ケ崎城より南朝軍が打ち出て合戦[(2)市河-1].
1337 建武4 2 16 杣山城の南朝軍,金ケ崎城包囲軍を攻撃[(2)市河-1].
1337 建武4 3 6 金ケ崎城が陥落し,尊良親王・新田義顕が自害[太平記,(2)市河-1].
1337 建武4 6 13 足利直義,北朝方として軍忠のあった足羽郡木田荘の荘官・百姓への守護課役を停めるよう,守護斯波高経に命じる[(2)尊経閣文庫-12].
1337 建武4 7 10 今立郡山本荘泉郷・船津郷が,円覚寺領として足利直義より安堵される[(2)円覚寺-8].
1337 建武4 8 3 足羽郡主計保半分(長崎左衛門入道旧領)が,豊田種治に与えられる[(2)二神-1].
1337 建武4 8 21 若狭又太郎旧領の三方郡三方郷・三方保地頭職が,本郷貞泰に与えられる[(2)本郷-14].
1337 建武4 9 府中付近の斯波高経の軍勢と南条郡杣山城の脇屋義助の軍勢が,南条郡大塩松崎辺でたびたび合戦する[太平記].
1337 建武4 12 4 丹生郡田中荘が,足利尊氏より勲功賞として佐々木秀綱に宛行われる[(2)佐々木-1].
1337 建武4 この年坂井郡坂北荘長畝郷内玄陽名が白山に寄付される[(2)水無瀬宮-2]./朝倉広景,但馬から越前に入国する[朝倉系図]./敦賀郡気比社が兵火にかかり焼失する[気比宮社伝旧記].
1338 暦応1 2 南条郡鯖波宿に偵察に出た脇屋義助の軍を北朝方の細川出羽守が攻撃し,合戦となる[太平記].
1338 暦応4 4 19 遊行七代託何(宿阿),吉田郡河合荘の往生院で初めて賦算を行う[遊行藤沢歴代系譜].
1338 暦応1 4 29 敦賀郡荒地(愛発)中山関の南朝勢を朽木頼氏が破り,同郡疋田まで追撃し,ついで金ケ崎城攻撃に加わる[(2)朽木家-4].
1338 暦応1 4 新田義貞,金ケ崎城を奪還[太平記].
1338 暦応1 5 11 幕府,土岐頼貞の軍勢を越前に発向させる[熊谷家文書].
1338 暦応1 5 24 北朝軍石橋和義,遠敷郡太良荘に禁制を下す[東寺文書射].
1338 暦応1 7 27 斯波高経,大野郡平泉寺を味方に引き入れるため,吉田郡藤島荘を恩賞として与えることを約束[太平記].
1338 暦応1 (7) 2 新田義貞,吉田郡藤島において斯波高経の配下の兵と遭遇して戦死.義貞の死骸は時衆の手により葬礼のため往生院に運ばれる[太平記].
1338 暦応1 8 25 越前守護斯波高経に対し,丹生郡宮成保・今立郡小礒部保・足羽郡角原村地頭職を園城寺に引き渡すよう,命令が出される[(2)園城寺-2].
1339 暦応2 1 遠敷郡明通寺,同寺に「御願塔婆(利生塔か)」を建立するよう幕府に要請する[(9)明通寺-27].
1339 暦応2 3 28 南朝軍,今立郡経峰を攻撃[(2)尊経閣文庫-13].
1339 暦応2 4 26 北朝軍,大野郡西方寺城を攻撃.足羽郡中嶋城の南朝軍が救援[(2)尊経閣文庫-13].
1339 暦応2 5 3 越前の南朝方が蜂起したため,北朝方の足利直義が近江の佐々木氏らに出陣を催促する[(2)朽木家-5].
1339 暦応2 5 6 足羽郡木田城・春日宮前で合戦[(2)尊経閣文庫-13・14].
1339 暦応2 5 27 南朝軍の足羽郡中嶋城が陥落[(2)尊経閣文庫-13].
1339 暦応2 7 5 南朝軍,吉田郡・足羽郡・大野郡の諸城を落とし,脇屋義助も府中より出て吉田郡黒丸城に迫る[太平記].
1339 暦応2 8 16 後醍醐天皇が死去する[神皇正統記,中院一品記].
1339 暦応2 9 15 北朝軍,足羽郡蕗野寺城・今立郡二岡城を攻め,浅水で合戦[(2)尊経閣文庫-13].
1339 暦応2 10 遠敷郡太良荘禅勝,父良厳住宅放火の報復のため守護使を引き入れた罪により公文職を罷免される[ヱ-54].
1339 暦応2 11 敦賀郡気比社の遷宮が行われる[気比宮社伝旧記].
1339 暦応2 12 13 遠敷郡神宮寺の三重塔に仏舎利2粒を奉納する旨の院宣が出される[(9)神宮寺-10].
1340 暦応3 3 11 吉田郡永平寺が火災に遭う[建撕記].
1340 暦応3 3 北朝軍,今立郡莇田城を攻撃[(2)尊経閣文庫-14].
1340 暦応3 7 12 三方郡三方保郷両所地頭職が,北朝方として軍忠があった若狭又太郎の子光忠に返付される[(2)本郷-15].
1340 暦応3 8 1 北朝軍,この日から3日までに坂井郡金津上野城・勝蓮華宿・三国湊千手寺城を攻略[(2)尊経閣文庫-15・16].
1340 暦応3 9 11 幕府,若狭守護斯波高経に対し,臨川寺領加賀国大野荘年貢を小浜津の問居(問)に検納させ,警固して京都へ運送させるよう命じる[(2)天龍寺-1].
1340 暦応3 9 12 北朝軍,この日から23日までに南条郡大塩城・妙法寺城・松鼻城・平葺城(脇屋義助の居城)を攻略[(2)尊経閣文庫-15・16].
1340 暦応3 10 19 北朝軍,この日から27日までに坂井郡畑城・糸崎城を攻略.畑時能降参する[(2)尊経閣文庫-17・18].
1341 暦応4 1 29 南条郡鯖波・脇本・大塩で合戦[(2)尊経閣文庫-21].
1341 暦応4 2 26 幕府,若狭守護斯波高経に対し,臨川寺領加賀国大野荘年貢が敦賀・小浜に着岸のときには違乱なきよう指示[(2)天龍寺-2].
1341 暦応4 3 遠敷郡汲部浦・多烏浦において,所務代官入部を拒否して浦人が逃散[秦-84].
1341 暦応4 5 14 南朝軍,今立郡二峰城より北朝軍の南条郡八王子城を攻撃[(2)尊経閣文庫-21].
1341 暦応4 6 25 南朝方の拠点南条郡杣山城が陥落し,翌日今立郡大滝城も落ちる[(2)尊経閣文庫-21].
1341 暦応4 7 23 北朝軍,坂井郡高栖(高須)城を攻撃[(2)尊経閣文庫-22].
1341 暦応4 8 11 足羽郡大町専修寺如道が死去する[中野物語].
1341 暦応4 8 13 敦賀津升米を祇園社造営料所として寄進する旨の院宣が発せられる[(2)八坂神社-1].
1341 暦応4 10 21 遠敷郡太良荘と恒枝保との田畠3町余の帰属をめぐる相論に,幕府が恒枝保勝訴の判決を下す[フ-18].
1342 康永1 2 25 斯波高経,南条郡崇禅寺を祈祷所とする[(2)尊経閣文庫-23].
1342 康永1 7 遠敷郡太良荘百姓,年貢銭を使い込んだ地頭方代官のために証言を翻した助国名主蓮仏を訴える[ヱ-58].
1342 康永1 11 13 京都妙顕寺日像が死去する[龍華歴代師承伝].
1342 康永1 この年朝倉広景,曹洞禅の別源円旨を開山に招き,足羽郡安居に弘祥寺を創建[禅林僧伝].
1343 康永2 3 14 安楽寿院領大野郡紙山保の味美・川原・宇良などにおける,興福寺浄名院の年貢請負が安堵される[(2)一乗院-9].
1343 康永2 9 9 越前の祇園社感神院領の越前保の保司が,近年無沙汰であった保役を納入[八坂神社記録].
1344 康永3 5 若狭守護大高重成,遠敷郡青井の寺院を禅寺に改め,大年法延を開山に招いて高成寺を創建[(9)高成寺-2・4].
1344 康永3 10 大高重成,夢窓疎石の法話集「夢中問答集」を大延法年の助力を得て開版.
1345 貞和1 2 遠敷郡高成寺と今立郡日円寺が安国寺に定められる[扶桑五山記].
1345 貞和1 8 14 遠敷郡多烏浦が汲部浦との境および網場回数について越訴したので,現地代官に審理が命じられる[秦-88].
1345 貞和1 8 29 若狭の奉公衆本郷貞泰・佐分左近大夫,越前の奉公衆千秋駿河左衛門大夫ら,足利尊氏・直義の天竜寺参詣に随従する[園太暦].
1345 貞和1 9 三方郡山西郷の地頭山西三郎次郎が国の検注を拒否したため,幕府の命により本郷貞泰と田河禅光が検注を促す[(2)本郷-16].
1346 貞和2 1 13 越前国今北西郡成得保の日吉別所蓮華寺での修正会に用いられていた鬼面(鯖江市加多志波神社蔵)が修補され,銘が書かれる[倢坥彫刻].
1346 貞和2 7 遠敷郡の国人の橘(松田)知基,東岩倉寺領同郡津々見保の所務職に任じられる[(2)尊経閣文庫-24].
1346 貞和2 (9) 5 坂井郡坂北荘宮地郷が,院宣により水成瀬御影堂に寄進される[(2)水無瀬宮-1].
1346 貞和2 11 遠敷郡名田荘知見村について,守寛と子息行寛が知見村内の地を花山院兼信に去渡し,預所となる[大徳寺文書].
1346 貞和2 12 18 今立郡山本荘土宮の祝が祭礼を止めたとして,講衆が排斥の起請文を記す[(5)瓜生守邦-3].
1347 貞和3 3 9 今立郡山本荘土宮の祝が罷免され,源守友が任命される[(5)瓜生守邦-5・6].
1347 貞和3 5 敦賀郡気比社が焼亡する[師守記].
1347 貞和3 9 遠敷郡名田荘井上・坂本・上村を本所蓮華王院に打ち渡そうとしたところ,山門雑掌が抵抗[(2)真珠庵-21].
1347 貞和3 この年朝倉広景,足羽郡北庄神明社を造営[朝倉氏系図].
1348 貞和4 1 25 南条郡高佐浦において法師丸が高佐浦大夫職に補任され,翌5年5月には権守職に任じられる[(6)中村三之丞-3・4].
1348 貞和4 2 4 越前で南北両軍が戦い,北軍が首級を京都に送る[建武三年以来記].
1348 貞和4 6 7 若狭守護大高重成,将軍の勘気を受け所領所職を没収される[園太暦].
1348 貞和4 6 17 山名時氏が若狭守護となる[守護職次第].
1348 貞和4 8 26 遠敷郡多烏浦で天満宮の上棟・修造が行われる[秦-90].
1348 貞和4 12 遠敷郡太良荘のもと公文禅勝,文永2年大田文などを東寺に提出する[ハ-17].
1349 貞和5 2 22 遠敷郡国分寺供僧職・常善名の相論につき,文書由緒により任命されていた良円を不出仕の理由で退け,経賢を補任する[(9)神宮寺-7].
1349 貞和5 (6) 足利直義と高師直の不和により,京都,騒擾する[園太暦].
1349 貞和5 8 15 越前に足利直義派の畠山直宗と上杉重能が配流される[師守記,園太暦].
1349 貞和5 12 畠山直宗・上杉重能,越前で殺される[園太暦・常楽記].
1349 貞和5 この年越前守護斯波高経は足利直義側に加わり,若狭守護山名時氏は高師直陣営に参じる[太平記].
1350 観応1 12 10 遠敷郡名田荘田村の水害による流失田畠の注文を荘官らが提出[(2)真珠庵-27].
1350 観応1 12 13 南朝,足利直義の帰服を許す[観応二年日次記].
1350 観応1 この年若狭守護山名時氏,税所代海部秀氏を更迭し,在庁官人の池田氏に替える[税所次第].

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