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ほんを愉しむ—江戸時代の愛書家界隈—

米価高値ポスター

 

 江戸時代は、庶民の識字率の飛躍的な向上を背景として多様なジャンルの本が出版され、読書や文芸が広く親しまれた時代です。 

 本展示は、江戸時代の版元として有名な蔦屋重三郎を主人公としたNHK大河ドラマ『べらぼう』に関連し、江戸後期における越前・若狭の市井の愛書家や俳諧などの文芸に関する資料を紹介します。 

目次

  1. 坪川武兵衛の写本類と記録類
  2. 越前の文人・安達喜作と若狭の文人・古河久太夫
  3. 桜井市兵衛の蔵書と文芸活動
  4. 桜井市兵衛の文芸活動


開催期間:2025年11月28日(金曜日)~2026年1月22日(水曜日)9時~17時
場所:福井県文書館閲覧室(入館無料)

関連イベント:ゆるっトーク(ギャラリートーク)
日時:2025年12月13日(土曜日)15:00~16:00
場所:文書館閲覧室
定員:当日自由参加(事前予約不要です)

 


1. 坪川武兵衛の写本類と記録類 

越前の愛書家・坪川武兵衛(展示パネル解説を開く)
 坪川武兵衛は、弘化2年(1845)1月28日生まれ。安政5年(1858)に14歳で足羽郡種池村(現福井市)の富農坪川家の家督を継いだ坪川武兵衛は、嘉永年中に筆道を川野瀬兵衛(未詳)から、安政年中に読書を下江守村の医師戸田一庵から、安政5年からは筆道を木田横丁の今村徳右衛門(福井藩士狛氏家臣か)から学ぶなどの学習歴があり、幼少期から読書に親しんだ人物です。明治4年(1871)以降、福井県第十一区二番組合総代、足羽県足羽郡第七区副戸長などを務めるほか、明治14年からは福井県学務委員などを務めました。

 坪川武兵衛は多数の書籍(写本類を含む)を所有するほか、生涯にわたり多数の記録を残しました。それらの中には資料的価値が高いものが多く含まれています。

本を写す。記録を写す。(展示パネル解説を開く)
 坪川武兵衛とその弟仁吉(のち三郎)は、坪川武兵衛の母・せんの実家(丹生郡笹谷村渡部与四郎家)とのつながりを持ち続け、同家に赴いた際にはしばしば多数の書籍を借り受けて写本を作成したことがわかっています。また一部の写本には、本の借受けなど本の系統に関する注記もあり、地域の知識層間の、本を通じた知のつながりをうかがうことができます(下写真)。
 また居所の種池村や丹生郡笹谷村以外でも、越前府中(現越前市)で本を筆写したこともありました(展示資料)。記録への熱意がきわめて高く、日常の出来事の記録から村の庄屋から借り受けた文書、さらには近隣の山奥村の墓石銘にいたるまで、多様な文字資料を記録していたことなども知られています。

資料:米直段扣

資料:米直段扣
「米直段扣」(A0141-00498)注記部分。同書は類本が確認され、越前に流布した地誌の一種とみられます。

資料:母の実家の本を借りて写す

 坪川家文書の古典籍類の多くには、写本の作成年代や作成者を示す注記がみられ、それらの作成事情がわかります。 坪川武兵衛と弟仁吉は、母の実家である丹生郡笹谷村の渡部家からたびたび本を借り、その多くを写していました。

 

資料:府中で写した天狗党の乱の記録

 元治2年(1865)3月に坪川武兵衛が府中室町の旅館種屋に宿泊したさいには、前年の天狗党の乱に関する記録「治都露久大宝恵(実録覚)」を府中本多氏家臣(郡奉行手代)の真柄杉左衛門から借受け、この写本を作成しました。

 坪川武兵衛の記録「子年帳」には、元治元年12月、真柄杉左衛門の上役である郡奉行らが、天狗党に対応するため府中本多氏に従い南条郡二ツ屋(現南越前町)に出陣したと記録されています。

 このことから、坪川武兵衛は同書を、実際の見聞に基づいた確かな記録と認識していたと考えられます。

資料:近所に本を貸す

 幕末期において坪川武兵衛は、村の人びとの求めに応じ、さまざまな本を貸し出していました。それらは「筆道訓用文章」や「和漢朗詠集」など子弟の手習に使われるものも多く、村における学習活動に役立てられたものと考えられます。

資料:貴重書「越藩拾遺録」を貸し出す

 「越藩拾遺録」は、江戸中期に福井藩士村田氏春が越前の歴史と地理について著述した地誌です。坪川武兵衛が伝えたこの本は、『越前若狭地誌叢書 上』(1971年刊)収載の「越藩拾遺録」の底本です。

 元治2年(1865)の記録「丑年帳」(展示資料)によると、坪川武兵衛はこの年の2月、この本を同村の庄屋五郎右衛門に対面で貸し出しています。そのさい武兵衛は、同書を「極々秘書」として「外見(貸出先以外の他人に見せること)」を堅く断っており、いわゆる貴重書として扱っていたことがわかります。

資料:手習いの師匠として

資料:辰年帳翻刻

 坪川武兵衛が慶応4年(1868)・24歳のころ残した記録「辰年帳」です。武兵衛はこの年の正月4日、「和漢朗詠集」収載の白居易の詩など早春を吟じた古典の名文を、書初めの課題として八右衛門弟らに渡したことがわかります。


2. 越前の文人・安達喜作と若狭の文人・古河久太夫

資料:越前の文人・安達喜作

 江戸後期の諸国の名高い俳人六百余名と「秀吟」を紹介する俳諧伝記書で、全五編からなります。 大坂の柿耶丸(七五三(しめ))長斎を編者とし、文化10年(1813)に大坂の書肆塩屋(鹿嶋)忠兵衛により出版されました。 収載されている俳諧作品は、松尾芭蕉やその弟子たちによる蕉風(正風)俳諧の流れをくむもので、庶民文芸的な滑稽さを排し、閑寂・枯淡な品格を重んじるものです。

 同書第二編では、越前の安達喜作、若狭の古河久太夫らによる俳諧作品が、本人の図像とともに紹介されています。

 

資料:万家人名録2翻刻

 

 越前坂井郡四十谷村の安達家は、江戸時代後期には農業のほかに酒造業、製紙業や紙問屋を営んでいた家です。 安達家当主の安達喜作は俳諧に長じており、安達家では当主が掲載されたこの本を後世に大切に伝えてきました。

 

資料:万家人名録1翻刻

 

 若狭西津の古河家は、若狭を代表する商家で、古河久太夫は古河屋出店二代目(のち本家六代目嘉太夫)です。 久太夫は、風波に遊ぶ若狭名産の「タコブネ(多古布祢)」の図に仮託して、自らをユーモラスに紹介しています。

 


3. 桜井市兵衛の蔵書と文芸

若狭の愛書家・桜井市兵衛(展示パネル解説を開く)
 三方郡食見浦(現若狭町)に所在する桜井(紙屋)市兵衛家は、江戸時代前期から製塩や桐油商売などに携わり、19世紀初めには同郡世久見浦の枝浦食見浦の「庄屋」としてみえる家です。桜井市兵衛家文書には、300冊を超える書籍が含まれますが、それらの多くは大切に保存されていたものとみられ、状態も良好です。また一部の書籍の入手の経緯や書籍の代価などがわかる資料が含まれています。
 延享2年(1745)ごろ、村内の春潮坊という人物が小浜で30冊余りの書籍を質入れしてお金を借り、その債権を桜井氏が引き取ったために、結果的に質入れされていた書籍を入手したことが資料からわかり、それらの書籍の一部も現存します。なお、年未詳の資料ですが、本の貸出しが行われていたことを示す資料(写真)や本の落丁に関する付紙なども残されており、それらは桜井氏が地域の愛書家であったことを示しています。
桜井市兵衛家文書の版本の俳諧集から(展示パネル解説を開く)
 桜井市兵衛家文書に含まれる18世紀中ごろの版本の俳諧集には、若狭で創作され、小浜小林堂・紅葉堂などが取次を行って京都の点者(俳諧の評価を行う俳諧師)に送られた俳諧が多く収載されています。
 同じころ、若狭小浜が広域における俳諧文芸の中心地となることもありました。一例として、京都の居初乾峰(貞六堂)を点者とし、小浜紅葉堂が「会林」として奉納会を主催したさいには、小浜のほか近江八幡(現滋賀県近江八幡市)、近江舟木(同安曇川町)などからも俳諧作品が寄せられており、その刷物である勝句刷が残されています(写真)。江戸時代中期の若狭小浜とその周辺地域における俳諧の流行・大衆化のようすがうかがえます。

資料:本の貸出しに関する資料

資料:韻鏡問答鈔など74巻書籍かし覚
「記」(N0055-00528桜井市兵衛家文書)右端に「かし」とみえます。

資料:小浜紅葉堂を「会林」とした奉納俳諧の勝句刷

 

資料:桜井家の購入図書リスト

 享保9年(1724)以降の数年間に桜井市兵衛家が購入した書籍の書名と価格が書かれています。

 和漢の書籍類とともに俳諧に関する本もみられ、当時の桜井氏の読書傾向をうかがうことができます。

 

資料:「食見金鳥」名のみえる俳諧集による前句付の文芸

 京都の俳諧師山本普求と「食見金鳥」の間でやりとりされた俳諧集です。粟鶉図が描かれています。

 

資料:若狭各地の俳諧作品の奉納

資料:神社イメージ

 

  三方郡向笠天満宮・遠敷郡西津釣姫大明神に奉納する俳諧の原稿(勝句)です。

  俳諧奉納の願主として向笠若輩、田井五葉、西津花月堂、小浜紅葉堂らがみえ、各地の「連中」から投句されたのち点者に選ばれた俳諧作品を収載しています。

 

資料:釣姫連中による前句付の文芸

資料:波部の写真

 

資料:前句合翻刻

 江戸後期の若狭遠敷郡汲部(つるべ)の「釣姫(つるべ)連中」による前句付の冊子です。出題された後句(翻刻文赤字)に対応して連中が創作した前句作品が書かれており、京都の俳諧点者の付記とともに、作品を評価するさまざまな点印が付されています。

 

資料:俳諧集(俳句10句、年未詳)

コラム:若狭食見(しきみ)の塩は「夏の霜」

 江戸時代の三方郡食見浦では製塩を主要産業としており、桜井家も製塩に携わっていたことが知られています。 多数の俳諧集を含む桜井市兵衛家文書には、18世紀半ばころに若州食見桜井(桜井市兵衛)と京都の俳諧師隆志雅公(北村隆志)の間でやりとりされたとみられる、手書きの俳諧集が残されています(展示資料)。

 その表紙に押されている角印の印文は、夏の季語「夏の霜」を使った俳諧形式を採り、巧みに特産の塩を宣伝するものになっています。なお「夏の霜」とは、夏の夜に月光があたって大地が白々と霜を置いたように見えることを表現する言葉です。 食見浦の塩は、江戸時代に流行した俳諧という文芸を背景とした、風雅なブランド名をもっていました。

 


4. 桜井市兵衛の文芸活動

桜井市兵衛の文芸活動(展示パネル解説を開く)
 桜井(紙屋)市兵衛は「井軒」「致常」の号を持ち、18世紀半ばに上方で発行された俳諧集にたびたび登場しており、活発に文芸活動を行っていたことがわかります。また、同じころ京都の俳諧師(点者)と頻繁に俳諧作品をやりとりしている「食見金鳥(金鳥堂)」などもみえますが、これは桜井市兵衛を中心とする、食見の俳諧連中の名称をさす可能性があります。
 残されている複数の資料からは、桜井市兵衛が食見浦の近隣の遠敷郡汲部浦(現小浜市汲部)や三方郡田井村(現若狭町田井)などの俳諧連中とも俳諧でのつながりをもっていたことが推測され、食見金鳥の資料が桜井家に多く残されていることをあわせると、この地域の俳諧の宗匠またはリーダーとしての一面をもっていたことがうかがえます。

資料:三方郡日向への小旅行に取材したとみられる「前句付」の書付

資料:前句付の書付

 

資料:①発句勧進の口上を受け取る

 延享5年(1748)正月、京都の俳諧師寸松堂(すんしょうどう)(甲良)林石(りんせき)による「発句勧進(募集)」の口上を記した木版刷物です。

 

資料:②俳諧作品をつくる

資料:寸松堂林石翁60歳を祝う句翻刻

 

 林石の発句募集に応じて桜井市兵衛(井軒致常)が創作した、俳諧作品の控です。

 

資料:③俳諧作品を投句する

 発句募集への投句料と景物(景品)などについて伝達する刷物です。取次を若狭小浜松花堂(本屋か)が行っています。

 

資料:④俳諧作品を鑑賞する

 俳諧集「松のはやし 左」(1750年刊)です。桜井市兵衛(井軒・致常)が寄せた俳諧作品が収載されています。

 

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室