企画展「あの人の筆あと -春嶽・左内・雪江・小楠・東篁・雲浜-」

開催期間・場所2024年4月13日(土)~6月26日(水)9:00~17:00
福井県文書館閲覧室(入館無料)
関連イベントゆるっトーク「幕末ふくいの人びと-春嶽・雪江・左内・小楠・東篁・雲浜-」
2024年5月12日/6月23日(日)16:00~17:00 福井県文書館閲覧室
内容詳細・申し込みはこちら
概要 松平春嶽や橋本左内、梅田雲浜など、幕末維新期に活躍した福井ゆかりの先人については、戦前の早い段階から遺墨(書状や書幅・短冊など)が集成され、全集等の形で広く紹介されてきた。しかし、刊行後に行方不明になった資料や全集から漏れてしまったものも数多くある。
 このたび、文書館が新たに収蔵した資料群のなかに、幕末福井ゆかりの人物に関する新出の資料や数十年ぶりに「再発見」された資料を多数確認したので展示、紹介する。

2024年度企画展ポスター

目次


1. 松平春嶽

1828-1890松平春嶽

 松平慶永。福井藩主。幕府の政事総裁職。幕末の福井藩政や国政の改革に取り組んだ。明治新政府では議定兼内国事務総督、民部卿、大蔵卿、大学別当兼侍読などを歴任するも、明治3年(1870)7月以降は全ての公職から退き、文筆生活に入る。著作に「逸事史補」「真雪草紙」などがあり、没後に詩文や歌を収めた『春嶽遺稿』全4巻が刊行された。

(一)松平春嶽和歌短冊(一) 松平春嶽和歌短冊
 明治10年(1877)の歌会始に春嶽(慶永)が詠進(提出)した歌。この年の題は「松不改色(松、色を改めず)」。「新らしき年の緒長き大御代はまつの緑の色そたくへん」。天皇の御代が長く変わらず続くことを、常緑樹である松の緑になぞらえて寿いだ歌。

A0219-00001山本英二郎旧蔵文書(当館蔵)

(一・参考)歌会始詠進懐紙参考)歌会始詠進懐紙
 明治10年 近世から続く正月の宮中儀式・歌会始は、明治になって現在の形に整えられた。本資料は、明治10年1月12日の歌会始に皇族・華族・官吏など49人から詠進された懐紙を綴ったもの。3行と3字で記すのが基本。屏風の短冊とは用字が異なっている。(原本:宮内庁公文書館蔵)


2.3. 橋本左内

1834-1858橋本左内

 福井藩士。藩医。思想家。大坂の適塾などで蘭学を学び、江戸で西郷隆盛ら諸藩の名士と交わった。安政4年(1857)藩校明道館の学監同様として教育をはじめとする藩政の改革に取り組む。同年、松平春嶽の侍読兼内用掛に転じて、将軍継嗣問題・外交問題の解決に尽力するも、反対派の井伊直弼による安政の大獄で刑死となった。享年26。

(二)市村乙助宛橋本左内書状(二)市村乙助宛橋本左内書状
左内が福井藩士の市村に宛てたもので、安政4~6年(1857~59)頃とみられる。自身の体調は快方に向かっているとし、「修行」(藩士の他国修行ヵ)の取り扱いについては承知したので、その旨を当人に伝えてほしいと述べている。全集未収の新出資料。
A0219-00002山本英二郎旧蔵文書(当館蔵)

(三)伊藤友四郎・榊原幸八宛橋本左内書状

(三)伊藤友四郎・榊原幸八宛橋本左内書状
藩校明道館の運営に関する同館助幹事からの相談に、安政5年(1858)10月6日、江戸にいた左内が答えたもの。左内は前年に同館学監同様から転任していたが、蔵書や考課(試験)など細部に至るまで依然として指導的な立場にあったことがわかる。
A0219-00003山本英二郎旧蔵文書(当館蔵)


4. 横井小楠

1809-1869横井小楠(平四郎)

 熊本藩士。思想家。通称は平四郎。福井藩に政治顧問として招かれ、松平春嶽の藩政改革や国政参加を思想面から支えた。朱子学(儒学の一派)の研究をふまえ独自の実学を展開。万延元年(1860)福井藩の改革方針を示した「国是三論」では、富国・強兵・士道を説いて、殖産興業策を推進する長谷部甚平、三岡八郎(由利公正)らに大きな影響を与えた。

(四)横井小楠(平四郎)書幅(四)横井小楠(平四郎)書幅
小楠が「真儒(真の儒者)」として敬慕した熊本の儒者大塚退野の言葉「退野曰政有易道」を揮毫したもの。「後学横井平敬書」の署名が、退野の学問(朱子学)を受け継ぐ覚悟を表明している。小楠が独自の実学を展開する前段階の思想的立場を示す。
A0218-20003野村家文書(当館蔵)


(参考)大塚退野先生語録

(参考)大塚退野先生語録
 小楠揮毫の「政有易道」の語は、じつは現在確認できる退野の著作には見出せない。しかし、本書には「政事ハ大底易道に備れり」とあり、これを縮めたものとみられる。儒学の五経の1つ「易経」を、政治を行う上での指針としたことを意味する。(原本:九州大学附属図書館蔵)


5. 中根雪江

1807 - 1877中根雪江

 中根靱負。福井藩士。側用人として松平春嶽の藩政と国政参画を補佐。隠居後も、中老同様、ついで家老格として春嶽の政治活動を支え続けた。江戸で平田篤胤に入門して国学を学び、福井で和歌の道が開ける「魁」に位置づけられる。また『昨夢紀事』や『丁卯日記』など、雪江が編んだ歴史書は幕末維新研究の最重要史料として高く評価されている。

(五)笠原白翁宛中根雪江書状(上)(五)笠原白翁宛中根雪江書状(下)

(五)笠原白翁宛中根雪江書状
安政5年(1858)正月、江戸にいる雪江から福井城下の町医・笠原良策(白翁)宛て。元水戸藩主・徳川斉昭の言動を耳にして歓喜に堪えず、気持ちを長歌・反歌にしたもの。米国との修好通商条約締結に反対する斉昭を龍神に喩え、その痛快さを詠う。
A0223-00003そらら収集文書(当館蔵)

(五・参考)昨夢紀事 八 中根雪江編

参考)昨夢紀事 八 中根雪江編
 安政4年(1857)12月29日、幕府海防掛の川路聖謨と永井尚志が、条約締結の打診のため斉昭を訪問。勅許(天皇の許可)なしでの締結に反対する斉昭は、交渉にあたる2人の老中は切腹せよ、米国領事ハリスの首を刎ねよ、といきり立ったという。 A0143-01221松平文庫(当館保管)

(五・参考)真雪草紙

(参考)真雪草紙

 松平春嶽著 雪江は国学者・平田篤胤の門人で、福井で和歌の道が開けたのは雪江らを「魁とす」と評される。また、種痘で知られる蘭方医の白翁もまた国学者・田中大秀の門人。国学徒の2人だからこそ、開国に反対する斉昭の言動に共感したものとみられる。A0143-02632松平文庫(当館保管)

(参考)万葉考 万葉用字格
表紙に「中根氏印記」の蔵書印があることから、雪江蔵書とみられる。長歌は5音7音の句を交互に連ね、最後を7音で止める形式。「万葉集」の時代に完成し、その後廃れたが、江戸時代、国学での「万葉集」研究をうけて再び詠まれるようになった。
A0143- M217180000万葉考A0143-M217220000万葉用字格 松平文庫(当館保管)


6. 吉田東篁

1808-1875吉田東篁

 福井藩士。儒学者。下士(卒)の家に生まれるも、学問を志して儒学(崎門学)を学び、水戸の藤田東湖や小浜の梅田雲浜ら諸国の名士と交流した。明道館では、助教や教授、都講(侍読)を務め、人材の育成に尽力。私塾に集まった門弟たちは「田門」と称され、藩政改革を推進した鈴木主税・橋本左内・由利公正らも名を連ねた。

(六)野村淵蔵宛吉田東篁書状

(六)野村淵蔵宛吉田東篁書状
安政5年(1858)2月7日、福井の東篁から京都で探索活動中の淵蔵に、橋本左内と会談するよう依頼した内容。東(幕府)と西(朝廷)の「合体」による「非常之御変革」に言及し、左内には敬称の「子」をつけ「誠ニ頼母敷」と高く評価している。
A0218-20001野村家文書(当館蔵)

(六・参考)昨夢紀事 九 中根雪江編

(参考)昨夢紀事 九 中根雪江編
安政5年(1858)2月7日、将軍継嗣問題・条約問題の朝廷工作のために左内が着京。12日、工作の「耳目之用(補佐)」とするた
め、左内は淵蔵を呼ぶ。東篁の意向を踏まえた会談があったと思われるが、左内は淵蔵にも「隠したい」ことがあったという。 A0143-01222松平文庫(当館保管)


7. 松平春嶽

1828-1890松平春嶽2

 松平慶永。福井藩主。将軍・徳川家定の継嗣問題をめぐって一橋派として活動したが、南紀派の大老・井伊直弼によって隠居・急度慎となる。文久2年(1862)4月に罪は赦免。同年6月江戸に下向してきた勅使と島津久光の推挙を受けて、7月に幕府の政事総裁職に任命された。翌年にかけて、将軍後見職となった慶喜とともに文久幕政改革を推し進めた。

(七)岡部長常宛松平春嶽秘書

(七)岡部長常宛松平春嶽秘書
箱書より文久2年(1862)8月19日の春嶽自筆書状と判明する。側用人・中根雪江が幕府の大目付・岡部のもとに持参。6月から勅使を奉じて江戸滞在中の島津久光(三郎。薩摩藩主の父)の官位問題について、政事総裁職の春嶽が意見を述べたもの。
A0223-00001そらら収集文書(当館所蔵)

(七・参考)再夢紀事 中根雪江編

(参考)再夢紀事 中根雪江編
 雪江が自身の日記等をもとに編んだ本資料には、8月19日の春嶽の秘書持参による岡部訪問についても記されている。春嶽は秘書で久光に同情的意見を述べていたが、岡部からは、藩主ではない久光に官位は与えられないとする「正論」が示された。
(国立国会図書館デジタルコレクションより)


8. 梅田雲浜

1815-1859梅田雲浜

 小浜藩士。儒学者。通称は源次郎。京都や江戸で儒学の一派・崎門学を学び、大津の湖南塾、京都の望楠軒で教えた。藩政批判を理由に藩籍を削られて浪人となるも、京都で尊王攘夷論の指導的役割を果たした。各地の名士と交わり、長州と上方との物産交易も仲介。安政5年(1858)安政の大獄で捕縛され、その際の尋問記録からは交友関係の広さがうかがえる。

(八)野村淵蔵宛梅田雲浜書状

(八)野村淵蔵宛梅田雲浜書状
京都の雲浜から福井の淵蔵宛て。嘉永2~3年(1849~50)と推定。「菊池兄」(重善)が福井に「潜行」するので「周旋・加勢」をお願いしたいとする内容。菊池は元水戸藩主・徳川斉昭の復権工作のため水戸を脱藩して宇和島(現愛媛県)に潜伏中だった。
A0218-20001野村家文書(当館所蔵)

(八・参考)昨夢紀事 二 中根雪江編

(参考)昨夢紀事 二 中根雪江編
野村淵蔵は、福井藩高知席(上士)稲葉務の家来で「聊文才もありて事情探索の筋等心得たる男」だったことから「細作」(諜報要員)として活躍した。また、学問を通じての交友も幅広く、雲浜や小楠、水戸藩士らと交流し、橘曙覧の門人でもあった。
A0143-01215松平文庫(当館保管)

Adobe Readerのダウンロード PDFファイルの閲覧には、最新の Adobe Reader が必要です。

 

会場位置MAP

会場_文書館閲覧室