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平泉寺に参拝した福井藩士

 令和7年(2025)5月23日~25日、平泉寺白山神社(勝山市)において33年に1度の「御開帳」があり、3日間で22万人を超える人が参拝したそうです。
 江戸時代の越前の人びとも白山禅定(修行登山)の折や開帳などを機に平泉寺に参拝しました。その道中記がいくつか伝来しており、平成18年(2006)には当館企画展示「白山紀行-ふくいからの参詣記録-」において、福井藩士が著した道中記がいくつか紹介されました。また、令和7年の開帳にあわせて開催された勝山城博物館・勝山市連携の共催展「白山と平泉寺を訪れた人びと-御開帳を中心に-」でも、新たに「平泉寺参詣之記」という道中記が紹介されています(以下「参詣記」と略します)。
 現在は早稲田大学図書館に所蔵される「参詣記」は、天保6年(1835)5月23日から25日にかけて「福井藩家臣の俊何某」が平泉寺に参詣した際の旅日記、として共催展で紹介されました(同展図録より)。参詣したのが「福井藩家臣」とのことなので、ここからは文書館資料叢書『福井藩士履歴』や当館収蔵資料などを用いて、この人物について探ってみたいと思います。
 「参詣記」は早稲田大学図書館古典籍総合データベースで画像が公開されており、細部まで閲覧することができます(画像を見る)。元表紙には次のような記載がみられます(画像を見る)。

   天保六乙未年五月日
   平泉寺参詣之記
       俊氏

 この「俊氏」が作者名であることは容易に推定できますが、「源」「藤原」などの「氏名」(うじな)および「松平」「本多」などの「苗字」(みょうじ)に「俊」1字または「俊」で始まるものは思い当たらず、また約2700人いた福井藩士のなかにも見出すことはできません。そうなると「俊氏」は上の名前ではなく、下の名前すなわち「諱(実名)」(いみな・じつみょう)であった可能性が考えられます(例:橋本左内の「綱紀」)。
 前近代社会における諱は「忌み名」として日常生活で使われることは稀で、福井藩の公的な記録にもほとんど出てきません。松平文庫のなかでは唯一「姓名録 一~十」(A0143-02010~02019) という資料だけが、慶長期~嘉永5年(1600~1852)の福井藩士(士分)の通称と諱の改名の変遷を記録しています。約900家、5500人以上の人名を収める「姓名録」で「俊氏」を名乗った人物は、ただ1人しかいません。大谷家5代当主で天保2年(1831)10月29日に家督相続した大谷半平俊氏です(画像1)。嘉永5年(1852)成立とみられる「姓名録」において現当主として記されることから、参詣した年代の天保6年(1835)とも合致します。

画像1 大谷半平俊氏
画像1 大谷半平俊氏 (「姓名録 三 チ・ヲ」)

 

 大谷半平は『福井藩士履歴 2』(pp.14~15)では「大館兵馬」の名で立項される人物で、知行は200石、大番筆頭、江戸聞番、使番、杉形鎗奉行、先物頭を歴任し、元治元年(1864)8月23日に隠居して子の尚氏が家督を相続しました。「士族略履歴 四」(A0143-00474)によると、大谷半平が大館兵馬と改名するのは文久3年(1863)12月28日のことといいます(画像2)。

画像2_大谷半平の履歴(「士族略履歴 四」)
画像2 大谷半平の履歴(「士族略履歴 四」)

 

 「参詣記」の作者「俊氏」を大谷半平(大館兵馬)に比定するには、もう少し決め手となる材料がほしいところです。関連資料を探していると興味深い事実にいきあたりました。
 鎌倉市の稲村ヶ崎に「十一人塚」という市指定の史跡があります。元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めに際し、極楽寺坂からの突入を任された同族の将・大館宗氏(おおだち・むねうじ)以下11人がこの地で北条軍に敗れて討ち死にしました。この11人を祀った塚が十一人塚です。文久2年(1862)になって、この塚の前に「大館又次郎源宗氏主従十一人墓」が建てられました。墓には次の文字が刻まれています(画像3)。

画像3 大館又次郎源宗氏主従十一人墓
画像3 大館又次郎源宗氏主従十一人墓(岡部福蔵『新田義貞公と鎌倉征討』上毛郷土史研究会、1938年)

 

 同地に墓を建てたのは「宗氏後裔」で福井藩士の大谷俊氏・氏亮父子でした。俊氏が苗字を「大谷」から「大館」に改めるのは、翌3年末のことなので、この建碑と改名との間に何らかの関係があったことが想像されます。
 「姓名録」および「松岡分限帳」(A0143-01327)によれば、藩士大谷家の祖・西山半平は元禄6年(1693)に松岡藩に儒者として召し出され、後に大谷半兵衛と改名しました。また「継業録 従保至和(福井藩士由緒記)」(C0019-00547)には、同家が「大館左馬助苗裔」と記されています。この「左馬助」は大館宗氏の子・氏明(うじあき)のことで、建武3年(1336)湊川の戦いで楠木正成軍とともに足利尊氏・直義兄弟の軍と戦い、その後も南朝方として戦っています(画像4)。

画像4 大館左馬助氏明
画像4_大館左馬助氏明(『義烈百人一首』国文学研究資料館蔵)

 

 平泉寺境内の三之宮の手前には、湊川の戦いで没した楠木正成の墓があり、天保6年(1835)に参詣した「俊氏」もこの墓に詣でて次の歌を詠んでいました。(画像5)

   五百たひの はての日近く まふて来て ミはかおかみを するそうれしき

画像5 楠木正成の供養塔
画像5_楠木正成の供養塔(2021年10月筆者撮影)

  じつは「俊氏」が参詣した日の翌々日、5月25日は楠木正成の五百回忌の忌日にあたりました。「俊氏」はその奇妙な偶然に感じ入って前掲の歌を詠んだのです。「参詣記」の本文全13丁のうち1丁を割いて、この墓について詳述しており、墓碑銘「楠正成ノ墓」も「参詣記」のなかに大書されています(画像を見る1画像を見る2)。

 「正義堂記録」(『福井市史 資料編 9』)によると、大谷半平は天保2年(1831)4月、家督前に藩校・正義堂で素読を教える「句読師」に任命されており、学問や文章に優れた人物であったことがうかがえます。
 ここまでみてきたように、諱と活動時期が一致し、そのうえ先祖が同じ南朝方の武将だったために楠木正成の墓に関心を持ち、また文筆にすぐれた大谷半平俊氏(大館兵馬俊氏)が、「参詣記」の作者「俊氏」であった可能性は高いといえるのではないでしょうか。
 元治元年(1864)に63歳で隠居した俊氏は、廃藩置県直後の明治4年(1871)12月13日に亡くなっています。享年70でした。

長野栄俊(2026年1月4日作成)