越前海岸北部の旧景「シャデかき」
目次
1. はじめに-各地の山火事と山林管理-
令和7年1月には米国カリフォルニア州で、3月には岩手、山梨、岡山、愛媛の各県でも大規模な山火事が発生しました。これら山火事の規模が大きくなったことについて、当時の風や湿度などの気象条件、地形などさまざまな複合的要因が識者から指摘されています。日本の山火事の場合、燃えやすい枯れ草や落ち葉が山林に大量に集積していたことも要因のひとつに挙げられています。
都市ガスやプロパンガスが普及する前は、かまどや囲炉裏がどこの家にもあって、筆者が子供だった50年ほど前には、ほとんど使うことはないものの、自宅にもそれらがありました。かつては山の枯れ草や落ち葉は燃料として採取され、伐採した樹木は材木のほか薪や木炭にされるなど、山林資源はさまざまな形態で管理・利用されていました。
本コラムでは、江戸時代後期の越前海岸北部における山林資源の管理・利用の一端に関する資料を紹介します(注1)。
2. 文久2年2月23日「しやでかき付立覚」について
次の資料(画像1)は、松田三左衛門家文書(当館蔵)に含まれる資料「しやでかき付立覚」の表紙です。
松田三左衛門家は国見岳西麓の丹生郡南菅生浦(現福井市)で庄屋など村役人を勤めた家で、多数の村方文書と家経営文書を伝えています。この資料は一見、文久2(1862)年の「しやでかき」についての記録のようにみえますが、実際は元治2(1865)年と翌慶応2(1866)年の記録です。1丁目の表紙のあと、資料の2丁目表には元治2年の「しやでかき」の内容が書かれています(画像2)。

(画像2 翻刻文)
覚
元治二年
丑二月廿三日
一、しやでかき
一、百六拾五束
字硲御立堺ゟ
助田迎迄
やとへ 茂兵衛かゝ
喜三郎半人
次平りゑ
久女次郎分 かゝ
家内五人
画像2からは、字硲(はざま)御立堺から助田迎までの区域で、「やとへ」の茂兵衛かか以下3名と家内5人が「しゃでかき」を行った結果、165束を得たということが読み取れます。
翌24日にも別の場所「字御立中の山」と「字硲はなの中山」で「しやでかき」が行われ、158束を採集し、松田家は次の画像3のようにうち計23束を「市大夫よめ」ら6名に分配しています。

同廿四日
一、七拾三束
字御立中の山
やとへ
一、八拾五束
字硲はなの中山
やとへ
一、四束 市大夫よめ
一、四束 次郎兵衛よめ
一、四束 次平親子弐人
一、四束 庄左衛門よめ
一、三束 北道上(道場)
御家中 六人
一、四束 南道上(道場)
廿五日
3丁目表以降は、同月25日、26日の記録が続きますが、いずれも同様の内容です。
「しやでかき付立覚」にみえるこれらの記録は何を意味しているのでしょうか。
3. 「しやで」「しやでかき」とは
実は、「しやで」は、茶色に枯れたクロマツやアカマツの松葉のことをいい、越前海岸北部などの地域で燃料にされたもので、通常は「シャデ」と発音します(以下、「シャデ」と表記)。ただ「シャデ」という言葉は、この地域でかつて使われた、いわば方言のような通称で、現在はほとんど使われない言葉となっています(注2)。
日本海に面した越前海岸北部の村むら周辺にはクロマツを主体とした松林があり、かつてはシャデが採集されました。各家で備蓄されたシャデは油分を含み火の付きが良く火力が強い燃料として重宝され、プロパンガスが普及する1960年代以前は炊事等で広く使われていました(注3)。「デジタルアーカイブ福井」によると、松田三左衛門家文書には、このようなシャデの採集に関する資料が少なくとも3点残されていますが、それらは幕末期の数年にわたって作成されたものです。
次に、「しやでかき」の「かき」の意味について考えます。『日本国語大辞典』(小学館刊)によれば、「熊手などで、集め寄せる」ことを「掻く」といい、例えば「スコップで雪を掻く・雪掻きをする・落ち葉掻き」などの表現があります。何を使ってシャデを掻いていたのか、具体的な道具名は資料からはわかりませんが、越前一帯で「ベブラ」と称する竹製の熊手を使ったのではないかと考えられます(注4)。また、興味深いことに「シャデかき」の記録は、いずれも旧暦の2月中下旬(すなわち新暦の3月中下旬ごろ)に作成されています。一年のうち春にあたるこのころは、福井県でも天候が安定し、やや乾燥する時期です。晩秋に地面に落ちた松葉「シャデ」はひと冬を経てこの乾燥した時期に採集されていたようです(注5)。

画像2、3にみるように、松田三左衛門家では「シャデかき」は松田家の家族(「家中」)数人と雇われた人(「やとへ」)数人により行われていること、資料のほかの箇所からは雇われた人には労働の対価として1日あたり4束程度のシャデが給付されていたこと、シャデを採取する区画に小字や小地名が付けられていたことなどがわかります。
4. 取引される松山とシャデ
松田三左衛門家文書には、シャデを産するいわゆる松山(松木山)の質入れや年季売の資料も残されています。
丹生郡南菅生浦の松木山が、やや遠方の坂井郡浜住村(現福井市)や同市ノ瀬村(同)の住人に質入れされる例(資料番号A0169-00236)や、松山を質入れはするものの20年間松木の保全を規定した質入れ証文もみられます(資料番号A0169-00080など)。また松田三左衛門家の松山年季売に関する資料で、助田迎山と称する一部の松山からもたらされる予定の「松は(松葉)代」を9貫200文としていることも知られ(資料番号A0169-00336、画像5傍線部)、松山のもつ経済的価値がうかがえます。

安政2(1855)年の例では、松田三左衛門家がひと春で複数の松山から得るシャデは、668束にのぼりました。それらの処分に関する資料は未調査ですが、かなりの数量なので燃料として売買されていたものと考えられます。
5. 現地を訪ねてみると
松田三左衛門家のある丹生郡南菅生浦は、塩、魚、雲丹など海産物の生産・売買に携わるほか、国見岳西麓に位置することから松山があり、前掲の資料にみられるようにシャデを産していました(注6)。
画像2にみえる小字地名に関連すると思われる「はざま山」「助田むかへ」などの表記のある天保14(1843)年の南菅生浦絵図(資料番号A0169-03411(村絵図、「南菅生浦助左衛門書之」、村扣)、画像6)を参考にして、江戸時代後期に松山だったと推定される現地を訪ねてみました。


南菅生集落からみて南東方面にあたる現地は、一部は開発されて田畑となっているほかは、現在は広葉樹(陰樹)主体の雑木林となっていました。陽樹のクロマツやアカマツの本数は少なく、とてもシャデかきができる状況ではありませんでした。人の手の入らない陽樹林は年月をかけて陰樹林へ遷移していくので、シャデかきなどが行われなくなって久しい現在、この状況は自然なものといえます。ただ、やや開けた道沿いの一角にはクロマツやアカマツの群生がみられ、確かにそこがかつては松林であったことを示していました(画像7)。

おわりに
シャデかきがいつから行われていたかを示す資料は、今のところ確認できません。ただ、幕末期頃の現地には適切に管理された松山や松林が広がり、毎年春にはそこでシャデかきに汗を流す人びとの風景があったことを、松田三左衛門家文書は教えてくれます。なお、本コラムで紹介した「しやでかき付立覚」のような私的な「覚」には、公的な資料には現れない、福井の各地のかつての生活文化に関わるさまざまな情報が記録されているものと思われます。
注
- 注1 本コラムは、全国各地の海岸防災林や松の植林を研究されている東北学院大学菊池慶子氏からの問い合わせに対するレファレンス(令和5年度)を契機に、越前海岸北部における山林資源の管理の一事例を紹介するものである。
- 注2 香川県三豊市の市職員の方の話として、同市詫間町松崎では、松葉を集める竹ぼうきを「サデカキ」と称したというが、この「サデ」は松葉などの名称ではなく、「かき集める」という意味の「さでる」という動詞に由来するものという(三豊市文書館宮田克成氏のご教示による)。
- 注3 『福井市史』民俗編(1988年3月刊)は、「棗地区では、枯れ松葉を集める山をシャデ山という。」と、同じく越前海岸北部に位置する棗地区にかつて存在した、シャデを産する松山について簡単に記述している。
- 注4 石川県小松市の海岸部では、「竹製の熊手で松葉を集める」ことを「ビブラでコッサを集める」と表現することがあるという(当館長野栄俊主任からの聞取りによる)。
- 注5 岡浩平・平吹喜彦編『津波が来た海辺』所収「クロマツ海岸林に支えられた新浜の暮らし」(菊池慶子氏執筆、2020年)によると、東北地方の仙台湾周辺での松葉採集(「松葉さらい」「こぼれさらい」)は、晩秋から初冬にかけて行われていたという。
- 注6 松田三左衛門家文書の他の資料からは、幕末期の南菅生浦で油桐(木の実)の生産・採集も行っていたことがわかる(資料番号A0169-00605「田地畠方諸作覚帳」など)。