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『福井県史』通史編3 近世一
写真65 結城秀康知行宛行状 写真66 酒井忠勝知行宛行状 写真67 小笠原信房知行宛行状 秀康は慶長六年九月九日最...異なっているのである。このほか松岡藩松平昌勝の宛行状には、「於領内百石宛行之畢、全可収納者也」(蜷川文書「越前史料」)と...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-03-03-01-06.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
や丹生郡の厨浦に残る「縄打目録」や、同年八月の家臣への知行宛行状に「今度以縄打之上」とあることから確認される。 この天正...お保留すべきである。 長秀は、前年の五月に一部の家臣に知行宛行状を出しているが(松雲公採集遺編類纂 資2)、本格的な知行...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-02-01.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
れた領知宛行状をあげておこう(『毛利家文書』)。 今度越前北庄城付廿万石之事、太閤様(豊臣秀吉)以被仰置旨被宛行畢、如帳面全可有...尾文書 資2)、友松忠右衛門は五〇〇石を豊臣氏五大老の名で宛行われている(土佐国蠧簡集残篇 資2)。 目次へ 前ページへ...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-10.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
ところで豊臣秀吉が溝口秀勝に宛てた領知宛行状には「越前国賀州内余 (江沼)郡・能美郡両郡、惟五郎左(丹羽長秀)へ一職申談候之処、余...一方敦賀の蜂屋頼隆は、山内半左衛門に南条郡の四郎丸村において知行一〇〇石を宛行っており(山内長右衛門文書)、その領地は敦賀郡だけでなく南...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-01.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
内」五〇〇石を秀吉から宛行われ、天正十五年に新たに秀吉から「越前国藤枝の城主」として五万石を宛行われたとされている(『寛...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-11.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
例えば、宛行状の領は知行地であるが、この時期の代官は原則として蔵入地を支配したのである。忠昌の宛行状から郡名が用い...なされる者が数名はいる。先に述べたように、秀康と忠直の知行宛行状の村付けでは、肩書に郡名が用いられることがなく、領名が使...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-03-03-04-03.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
し、天正十三年に山内一豊への大飯郡の宛行も、天正十五年の浅野長吉への若狭一国の宛行にもその石高は明示されておらず、若狭全...資8)、また同年七月に豊臣秀吉が建部寿徳や木下和泉入道に石高表示で知行を宛行っており、一部に検地が行われ、またその把握も石高でなされて...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-02-04.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
荒廃した国内状態の復興、国内の武士や寺社への知行分の安堵と宛行い、新たな本拠地としての北庄城とその城下町の建設があった。...資2)、寺社本領の引渡しも始められている。十一月になると、信長による国内直臣に対する新知行分の宛行いがみられるようになるが、その新知行高は朝倉氏滅亡後の越前...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-02.htm -
『福井県史』通史編3 近世一
秀政の領地の範囲は、秀吉の領知宛行状に「川北村」「城之橋東」「舟橋分城之端分」「西方内」「加...外は明確ではない。そこで秀政が多賀源介など家臣に与えた領知宛行状からその分布をうかがうと、その領地は足羽郡・坂井郡・吉田...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-03-01-02.htm -
図説福井県史 近世7 藩の家臣団(2)
福井県立図書館保管 ▲結城秀康知行宛行状 福井藩では、家臣に知行を現地で給与していた。この宛行状は、結城秀康が1601年 (...localhost/fukui/07/zusetsu/C07/C072.htm