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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      丹羽長重の若狭転封後の越前
 北庄にあった丹羽長秀は、天正十三年四月十六日に死去した。その跡は子の長重が継いだ。しかし同年閏八月、長重は越前の所領を没収され、若狭一国への転封を命じられた(『兼見卿記』など)。この長重の若狭への転封は、『顕如上人貝塚御座所日記』に「惟住五郎左(丹羽長重)若年ニつきて家中不和之儀御異見云々」とあるように、家中の不和に原因があったようである。
 長重の跡の越前には、北庄に近江佐和山にいた堀秀政が、足羽郡の東郷に長谷川秀一が(『兼見卿記』『多聞院日記』)、府中に若狭佐柿にいた木村常陸介(隼人佐)が入部した(内田吉左衛門家文書 資6)。堀秀政の領地構成は、表4のとおりであり、二九万〇八〇〇石のうち一〇万石が与力として付された溝口秀勝と村上義明の領地であった。秀政の領地の範囲は、秀吉の領知宛行状に「川北村」「城之橋東」「舟橋分城之端分」「西方内」「加州江沼郡之内・能美郡之内」と表記されているものの、加賀の二郡以外は明確ではない。そこで秀政が多賀源介など家臣に与えた領知宛行状からその分布をうかがうと、その領地は足羽郡・坂井郡・吉田郡に広がっていたことがわかる(多賀家文書 資2など)。秀政の領知高は、理由は判明しないが、その後二万石減少した。天正十八年五月に秀政が死去した時、子の秀治は残る一六万石を継いでいる(延岡堀文書 資2)。

表4 堀秀政の領知

表4 堀秀政の領知
注) 「松雲公集遺編類纂」により作成.



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