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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      金森長近の飛騨転封
 越中の佐々攻めの一環として飛騨平定を豊臣秀吉から命じられた大野の金森長近は、天正十三年七月末には飛騨に入り、八月末に飛騨をいったんは制圧下に置くが、その直後に蜂起した一揆を容易に平定しえなかった(『岐阜県史』通史編近世上)。
 秀吉は、当初丹羽長重等の転封と同時に長近の飛騨転封を構想していたようである。しかし飛騨平定に手間取り、長近が転封に抵抗したこともあって、この時点では構想は実現しなかった(金森穰家文書 資6)。だが天正十四年に一揆が鎮圧されると、これを契機に長近は飛騨への転封を命じられた。
 この長近の飛騨転封の跡に紀伊で一万石を領していた青木一矩が入った。一矩の大野郡領知を示すものは、大野の専西寺とその門徒の支配を専修寺の進退とするとの豊臣秀吉の命を伝えた天正十五年と推定される九月六日付の一矩の書状である(専修寺文書 資2)。一矩の領地は、金森長近の旧領が充てられたと思われ、領知高は、文禄三年に青木一矩の跡に大野を領した織田秀雄の高からすれば四万五〇〇〇石である。



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