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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      浅野長吉の若狭領有
 天正十三年以来若狭一国を領していた丹羽長重は、天正十五年三月の九州出兵のさい生じた家臣の不始末によって、領地若狭を除かれ、加賀松任四万石に転封させられた(『寛政重修諸家譜』)。
 同年九月、秀吉の奉行の一人である浅野長吉(長政)が若狭一国を拝領し、小浜に入った。この翌年、長吉は、若狭の惣検地を実施し、その石高を八万五〇九九石余りとした(「太祖公済美録」)。入国時の秀吉の領知宛行状に「若狭一国事、令扶助畢、全可領知候也」とあるが(『浅野家文書』)、この検地を契機に、ほぼ一万石の豊臣氏蔵入地が若狭に設定された。
 その後長吉は、入国直後に近江志賀郡で二五四八石を、また天正十九年九月二十二日に若狭に設けられた豊臣氏蔵入地のうちから六五〇〇石を加増されている(『浅野家文書』)。この長吉の若狭領有は、このあと文禄二年の甲斐転封まで続く。
写真29 浅野長吉像

写真29 浅野長吉像
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