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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      大谷吉継の敦賀入部
 天正十七年九月二十五日、敦賀を領していた蜂屋頼隆が死去した。頼隆には跡継ぎがなく、死去直後にはその跡に織田信長の四男で豊臣秀吉の養子となった豊臣秀勝が入部すると噂された(『多聞院日記』)。しかし、秀勝は甲斐に転封となり、敦賀には大谷吉継が入部した。
 大谷吉継の領地の範囲は、入部当初は敦賀郡二万石余りであり、その領知高が五万石となるのは小田原の陣・奥羽出兵から帰った翌天正十八年末のことである。このことは、同年十二月十八日に吉継が越後の色辺修理に送った書状の中で「我等事、越前府中木村常陸介知行分致拝領候」と述べていることからうかがうことができる(反町英作氏所蔵文書 資2)。なお、このとき加増された領地の所在は、宮川源右ヱ門家に残された「大谷形(刑)部少輔殿様府中郡御知行分惣目録」(資6)によって知られ、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、二万六九四四石であった。
 なお大谷吉継の領地は、慶長三年(一五九八)の太閤検地実施後、一部の領地が割り替えられ、三〇〇〇石近く加増されたが、そのおり今立郡にあった領地は姿を消している(馬場善十郎家文書 資6)。



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