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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      木下勝俊と木下惟俊
 浅野長吉は、文禄二年十一月二十日、甲斐への転封を命じられる(『浅野家文書』)。長吉の甲斐転封は、文禄二年閏九月二十二日付の木下半介書状に「伊達(政宗)事御赦免之上ニ而候得共、猶身上之儀不被仰出候、浅弾(浅野弾正少弼長吉)ニ甲州被下候」とあるように、この時には決定していたようである(『駒井日記』)。
 長吉が去った跡の若狭には、木下勝俊が小浜に、木下惟俊(利房)が高浜に入った。この両者の若狭領知がいつ始まったかは明確ではないが、文禄三年の「伏見普請役之帳」には、六万二千石 羽柴若狭(木下勝俊)少将二万石 木下宮内(惟俊)とみえ、文禄三年には若狭領知が確認される。また三方郡の日向浦と早瀬浦の訴訟文書からも同年三月には勝俊の奉行が若狭に入っていたことが知られる(渡辺六郎右衛門家文書 資8)。おそらく長吉の甲斐転封と同時にそれぞれ小浜六万二〇〇〇石、高浜二万石を領することになったものと推測される。なお、この時点でも若狭には三〇〇〇石の豊臣氏蔵入地が残されている(『大日本租税志』)。



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