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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      木村常陸介領の消滅
 府中にいた木村常陸介の領地は、天正十八年にその一部が大谷吉継領となることで、おそらく府中周辺で割り替えられたものと思われるが、その後も常陸介は府中を動いてはいない。
 その後の常陸介の動きについては、先にあげた文禄二年閏九月二十二日付の木下半介の書状に、浅野長吉の若狭から甲斐への転封の記事に続いて、一、若狭、□□(木村カ)常陸ニ被下候、一、常陸跡者何共無御意候、とあり(『駒井日記』)、この時、常陸介の若狭転封が決定していたかにみえる。しかし、先述のように若狭へは木下勝俊と惟俊とが入ったので、現実のものとはならなかった。
 ところで、文禄三年春の「伏見普請役之帳」には「四万五千石 大野宰相(織田秀雄)・同常心」また「八万石 青木紀伊守(一矩)」とあり、この時点で大野に織田秀雄がいたこと、それまで大野にいた青木一矩が八万石を領していることがわかるが、他方木村常陸介の名はみえない。一方青木一矩は、文禄四年五月五日には府中御霊宮別当へ禁制を与えており(御霊神社文書 資6)、遅くともこの時までには府中に転じていたことが知られる。
 こうした状況からすれば、確定できないものの木村常陸介の越前領知は文禄二年の末から文禄三年のごく初めには終りを告げ、大野から青木一矩が八万石に加増され府中に入部し、さらに一矩に代って大野には織田秀雄が四万五〇〇〇石で入部したとみて大過ないと思われる。なお、秀雄は、文禄四年八月二十八日に大野郡友兼村専福寺の寺領を安堵し(友兼専福寺文書 資7)、また同日に大野の最勝寺へ寺領を寄進している(最勝寺文書 資7)。



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