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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      長谷川氏領の消滅
 足羽郡東郷にいた長谷川秀一は、文禄三年二月出兵先の朝鮮で死去した。これまで、この死をもって長谷川氏の越前領知は終りを告げたと考えられてきた。しかし、秀一の死去以前の文禄二年十一月二十五日にその一族と思われる「権介秀康」という者が専照寺に「中野門徒」についての判物を出し(専念寺文書 資3)、また同じ秀康が秀一死去後の文禄三年十一月晦日に秀一が天正十三年に石屋中に宛てたものと同文の「条々」を出している(木戸市右衛門家文書 資3)。また先述のように長谷川嘉竹の西光寺への寄進状や武藤文右衛門の大野郡畔川村への免許状もみられる。
 こうした事実は、長谷川秀一の死後もなお長谷川氏の越前領知が続いたことを示している。しかし長谷川氏の領知がいつまで続いたかは、いまのところ確定できないが、先の文禄五年正月十五日の大野郡畔川村への判物が長谷川氏の越前領有を示す最も新しいものである。
長谷川秀一像

写真30 長谷川秀一像



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