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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      堀秀治の越後転封
 天正十三年以降北庄にあった堀秀治は、慶長三年四月、上杉景勝が会津一二〇万石に転封した跡をうけて、越後春日山四三万石へと転封していった(延岡堀文書 資2)。それに代って小早川秀秋が北庄に入ることになった。北庄にはその後六月の末になっても堀秀治の留守居が残っており、北庄城には溝江長氏が入り、在番を勤めていた(生駒文書)。
 小早川秀秋の越前領知は、堀秀治の越後転封と同時に決定していたが、領地の引渡しは、この年の五月から七月にかけて越前一国を対象として実施された太閤検地の完了後であったと思われる。このことは、小早川秀秋による松野主馬正や菅仁三郎などの家臣への領知宛行が検地終了後の八月になって行われていることによっても推測される(松野文書・大阪城天守閣所蔵文書 資2)。
写真31 小早川秀秋像

写真31 小早川秀秋像

 ところで小早川秀秋の領知高は、一二万石ともいわれるが確かではない。またその領地の範囲は、先の領知宛行状からも堀秀治の旧領のうちであったと推察される。また、秀秋には、北庄在番を勤めた溝江長氏をはじめ越前に領知を持った中小の領主が与力として付けられた(成簣堂文庫所蔵文書 資2)。
 この年の太閤検地を機に、検地奉行を勤めた溝江長氏・服部正栄・伊東長次の三人は、ともに一万石に加増された。服部正栄の越前での領知は足羽郡・今立郡の二郡八か村で五八四八石であったことがわかるが(鈴木文書 資2)、伊東長次の領地は越前国内に七か村あったこと以外は判明せず(小沢栄一氏所蔵文書)、溝江長氏の七五〇〇石の加増分の知行がどこにあったかもわからない(中村不能斎採集文書 資2)。このほか、慶長四年に加賀江沼郡一万三〇〇〇石に転封された山口修弘も、この時に越前に領地を得たものと推定される(『毛利家文書』)。



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