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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      青木一矩の北庄入部
 慶長四年二月五日、小早川秀秋は秀吉の遺命によって越前北庄から筑前・筑後五二万石へ転封となった。と同時に府中にいた青木一矩に北庄二〇万石への転封が命じられた。そのとき五大老から出された領知宛行状をあげておこう(『毛利家文書』)。
今度越前北庄城付廿万石之事、太閤様(豊臣秀吉)以被仰置旨被宛行畢、如帳面全可有
御知行之状如件、
(慶長四年)二月五日 (毛利)輝元
(上杉)景勝
(宇喜多)秀家
(前田)利家
(徳川)家康
羽柴北庄(青木一矩)侍従殿
 ところで青木一矩の北庄転封は、慶長四年一月十四日の浅野長政・石田三成の連署状に 「府中羽柴紀伊守(青木一矩)殿御知行、同御代官所、為御蔵入両人ニ御代官被仰付候間、可成其意候事」とあるように(木村孫右衛門家文書 資6)、すでにこの年の一月半ばには決定していた。そしてこれと同時に、一矩の領地と一矩が代官として預かっていた豊臣氏の蔵入地は、浅野長政・石田三成の二人が代官として支配することになったことが知られる。
 しかし、長政・三成の二人による府中領の支配はそう長くは続かず、慶長四年十月には堀尾可晴が府中城の「御留守居」として五万石の領地を得て入部した(内閣文庫所蔵「古文書集」 資2)。そして同時に、赤座久兵衛・江原小五郎・乙部左門・友松忠右衛門・野村勝次郎の五人が与力として付けられた。
 このうち赤座久兵衛は、今庄付近に領地を持った古くからの領主であり、江原小五郎は慶長四年六月十三日に「府中方」で一〇〇〇石(荒尾文書 資2)、友松忠右衛門は五〇〇石を豊臣氏五大老の名で宛行われている(土佐国蠧簡集残篇 資2)。



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