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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      慶長五年九月
 慶長五年九月の関ケ原の戦いに当たって、越前の領主のうちには東軍に付いた者も、西軍に付いた者もいた。北庄の青木一矩と府中の堀尾可晴は東軍に付いた。それに対して西軍には、敦賀の大谷吉継、東郷の丹羽長正、大野の織田秀雄、丸岡の青山宗勝・忠元父子のほか、木下頼継・赤座直保・奥山正之などが付き、関ケ原後いずれも除封となった。表5は、『廃絶録』から除封された領主とその石高をあげたものである。領知高は、そのまま信頼することはできないが、参考のためあげておく。 表5 関ケ原後の除封

表5 関ケ原後の除封

注) 『廃絶禄』により作成.
写真32 大谷吉継の自刃(関ケ原合戦図屏風)

写真32 大谷吉継の自刃(関ケ原合戦図屏風)

 このうち丹羽長正は、丹羽長秀の次男で、天正十三年閏八月に「越州以内郡村之内」五〇〇石を秀吉から宛行われ、天正十五年に新たに秀吉から「越前国藤枝の城主」として五万石を宛行われたとされている(『寛政重修諸家譜』)。しかし、これを伝えるのはこの史料のみであり、「藤枝」の地がどこかについても明確ではなく、さらにいつ東郷へ転封してきたかも明らかでない。
 これら除封された領主の跡地が、結城秀康の入部までどのような状態に置かれたかについては多くを知ることはできない。ただ敦賀郡については徳川氏の代官権田小三郎の支配下にあったことが知られる(『敦賀市史』通史編上巻)。
 青木一矩の関ケ原での去就は微妙な点もあったが、最終的には東軍に付き、関ケ原後も所領に変化はなかった。しかし慶長五年十月十日、一矩が病死したことで除封となり、その跡に保科正光が在番として入った(橘栄一郎家文書 資3)。
 正光の北庄入城は、この北庄の商人橘屋への諸役免許の仲介を一矩の家臣である林伝右衛門が行っており(橘栄一郎家文書 資3)、円滑になされたものと思われる。また伝右衛門は同年十一月二十一日に永平寺の寺領の取扱いについての判物も出している(永平寺文書 資4)。
 さらに東軍に付いた堀尾可晴の府中領でも、慶長五年十一月六日に可晴の家臣である堀尾一信が大滝五か村に夫役紙等の特権を保証しており(大滝神社文書 資6)、可晴の越前領知は依然続いており、この時点ではなお北庄の新しい領主となる結城秀康の支配は越前に及んでいない。
 一方小浜の木下勝俊は当初伏見城の守衛に付くはずであったが、徳川勢の排除にあって城を出たため戦い後に除封され、また高浜を領していた木下惟俊も同じくその領地を奪われた。ただ関ケ原の戦い後も同年九月二十三日に勝俊の家臣が遠敷郡矢代浦に年貢の免状を出しており(栗駒清左ヱ門家文書 資9)、その支配はごく短期間であるが続いている。
 若狭には木下勝俊・惟俊に代わって関ケ原の戦い直前まで近江の大津城にあって西軍と戦った京極高次が入る。その支配は、慶長五年十月十二日に小浜の長源寺へ禁制を与えているように(長源寺文書)、関ケ原の戦いから一か月とたたない時期に開始されている。



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