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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      丹羽長秀の支配
 天正十二年(一五八四)七月、丹羽長秀は越前で検地を実施した。このことは、今立郡の大滝村や丹生郡の厨浦に残る「縄打目録」や、同年八月の家臣への知行宛行状に「今度以縄打之上」とあることから確認される。
 この天正十二年の検地は、後の太閤検地が一反=三〇〇歩制を採用したのとは異なり、中世と同様一反=三六〇歩制で行われ、大半小の表記が用いられている。一方田畑や村の規模を表示するために石高が採用され、大滝村の例では、田方、屋敷、上畠、中畠、下畠を区別し、田方は反別一石五斗、屋敷は大豆一石、上畠は大豆六斗、中畠は大豆三斗、下畠(山畑)は大豆一斗五升の石盛がなされ、米・大豆の区別なくそれぞれの高を合計しそれを村高としている(大滝神社文書 資6)。
写真33 栗屋(厨)浦縄打目録

写真33 栗屋(厨)浦縄打目録

 厨浦をはじめ越前海岸の浦々の場合には、田方は大滝村と同様の石盛であるが、屋敷は大滝村の石盛より高く一石五斗であり、田方とのあいだに差はなかった。山畑については「分銭」でとらえられ、一反を五〇〇文とし、それを石当たり三貫文で換算して石高としている。これは山畑一反につき米一斗六升七合となり、大滝村の下畠より若干高いものとなっている(青木与右衛門家文書 資5)。
 こうした例をみる限りこの時の検地は、田方の田品による区別はなされておらず、また屋敷高や畑高にみられるように、地域によってその石盛に差のあったことが知られる。ただ、田方に田品による差がなかったかどうかは、史料が少ないことからなお保留すべきである。
 長秀は、前年の五月に一部の家臣に知行宛行状を出しているが(松雲公採集遺編類纂 資2)、本格的な知行割はこの検地後に行われている(土佐国蠧簡集残篇 資2、長井健一家文書 資9など)。それらの知行宛行状に記された村々は、足羽郡・吉田郡・坂井郡・丹生郡・今立郡の広がりをもっており、この検地が広い範囲で行われたことを示している。その後の経過からみるとこの検地での高が、慶長三年(一五九八)の太閤検地以前の越前の国高四九万九四一一石の基礎となっていることは間違いない。しかしこの検地が長秀の領地以外をも含んだ越前一国を対象としたものであったか否かは不明である。
 



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