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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      堀秀政への定
 天正十三年閏八月、豊臣秀吉は、堀秀政に北庄三〇万石を与えた。と同時に秀吉は、領地支配の原則となる五か条からなる「定」を発布した(「堀氏代々家伝記」)。その第一条で、給人の交替をみこし百姓たちが他の在所に移動することを禁じ、それに違反した場合にはその当人だけでなく在所ともども成敗するとしている。
 第二条は、百姓の年貢納入の無沙汰を禁じ、一方で田畑以外に年貢を課すことを禁じ、さらに立毛が悪ければ検見のうえ損毛分を差し引き納入させるとし、そのうえ百姓に不足がある場合には田地の上中下三反を刈り取り、その量をはかり、有米の三分の一を百姓が、残る三分の二を給人が取ることを定めている。この規定は、この後も豊臣政権での年貢納入における百姓と給人との紛争処理法として定着している。
 第三条では、給人が百姓に非分を申しかけた場合、北庄近辺は秀政に直訴することを求め、その裁許に当たってはよくよく聞き届け糾明するよう求めている。
 第四条と第五条は、奉公人についての規定で、奉公人を自分の知行所に置き、もし他の知行所にいる場合は、その給人に届けることを求め、さらに侍・中間・小者に至るまで奉公人は、元の主人の承認を得たうえで召し抱えるよう命じている。
 このようにこの定は、丹羽長重の若狭転封後の多くの領主の交替に対応したものであり、また給人と奉公人と百姓の身分的区別を明確にすることを意図したものであった。またこの定は、直接には秀政に出されたものであるが、おそらく新たに越前を領した長谷川秀一や木村常陸介にも同様の定が出されたのではないかと思われる。



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