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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      浅野長吉の「条々」
 浅野長吉(長政)は、天正十五年十月二十日、領内の村々に領内支配のための七か条からなる「条々」を出した(渡辺市左衛門家文書 資8など)。
写真34 浅野長吉条々

写真34 浅野長吉条々

 第一条で、隣国から年貢を未進したまま逃げてきた者を召し抱えることを禁止し、それを通して百姓の逃亡を防止しようとしている。
 第二条で、盗賊や身元不明の者の召抱えを禁じ、治安の維持を図っている。
 第三条で、給人や代官が百姓に対して理不尽なことを申しかけ、人夫などの徴発がなされても承諾してはならない、もしそれを強いた時には直訴することを許し、給人や代官の恣意を排除している。
 第四条で、年貢は規定の升をもって納入すること、もし年貢を未進する者は処罰するとし、年貢納入の公平化を明示するとともに、未進者へは強い姿勢で臨んでいる。
 第五条で、以前に逃亡した百姓を呼び返し、田地が荒廃しないよう申し付け、荒地は年貢を半分とし、長く荒れている土地を耕作した時には翌年の年貢は免除し、また立ち戻った百姓には翌年の夫役を免除し、荒地を開墾しあるいは主のない田地を耕作した時には、耕作者にその権利を末代にわたって認めるとし、耕地の維持・増加を図り、安定的な年貢の確保が目指されている。
 第六条で、長百姓が土地を小作に出し、小作料である作合を取ることを禁じ、これまで耕作してきた者が年貢を直接納入することを求めている。いわゆる「一地一作人」の原則である。
 第七条で、その地の長百姓や荘官などに平百姓が使役されてはならないとし、前条とともに百姓内での中間搾取や隷属関係を否定している。
 またこの翌年二月に、浅野長吉の奉行人が五か条からなる「定」を遠敷郡本保村に出した。その第一条は、作付してきた田畑すべての耕作を命じ、第二条では検地のさいの測量違いは測量のしなおしを約束し、第三条では逃亡百姓の田畑の耕作は惣中の責任で行うよう命じ、第四条では荒地の取扱いを昨年の定どおりとすることをあげ、第五条では損亡の場合は検見のうえ三分の一を百姓の、残る三分の二を領主の取分とすることを定めている(清水三郎右衛門家文書 資9)。このように当時の領主にとっての最も大きな関心は、田畑を余すことなく耕作させることと百姓が逃亡することを防止することにあった。
 文禄二年(一五九三)に浅野長吉の跡に小浜に入った木下勝俊も、文禄四年十一月に長吉の出した「条々」とほぼ同様の「定」を領内に出している(清水三郎右衛門家文書 資9)。



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