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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      天正十六年の若狭検地
 天正十六年六月から七月にかけて、浅野長吉による若狭一国の惣検地が実施された。それ以前の若狭は、天正十一年に三方郡を中心に所領を持っていた木村隼人佐が検地を行い(宇波西神社文書 資8)、また同年七月に豊臣秀吉が建部寿徳や木下和泉入道に石高表示で知行を宛行っており、一部に検地が行われ、またその把握も石高でなされていたことが知られる。しかし、天正十三年に山内一豊への大飯郡の宛行も、天正十五年の浅野長吉への若狭一国の宛行にもその石高は明示されておらず、若狭全体の石高把握はなおなされていなかったものと思われる(『山内家史料』『浅野家文書』)。
 天正十六年の検地は、三方郡で世久見浦・佐野村・郷市村・相田村、遠敷郡で太良庄村・堅海浦・泊浦・仏谷村・伏原村・上根来村・中ノ畑村・玉置村のものが残されている。これらの検地帳から検地の様子をうかがうと、一反=三〇〇歩制が採用され、検地帳には地字名、石盛、田・畠・山畠・屋敷地・荒地などの区別、面積、分米、名請人の名が記され、帳面の最後に集計が記されている。
 一反当たりの収穫高を示す斗代(石盛)は、遠敷郡太良庄村の場合は、上田一石八斗、上中田一石七斗、上下田一石六斗、中田一石五斗、中々田一石四斗、中下田一石三斗、下中田一石一斗、下田一石、上畠一石、中畠八斗、中々畠七斗、中下畠六斗、下々畠四斗であり、荒地にも石盛がなされ、また村によってその石盛に差があり、この検地がきめ細かくなされたことが知られる(高鳥甚兵衛家文書)。
 三方郡佐田村の検地帳では、七六四筆のうち約一〇パーセントに当たる七六筆に「失人」の記載があり、また村高六四六石のうち永荒が一一八石、当荒が一八石みられ、農村の荒廃した様子をうかがうことができる(野崎宇左ヱ門家文書 資8)。こうした状況に対応したのが、逃亡百姓の防止とすべての田畑を耕作することを求めた先の法令の各箇条である。
 この惣検地の結果、若狭一国の高は、八万五〇九九石六斗七升となった(「太祖公済美録」)。表6は、この検地での各郡の石高と年貢量である物成高を表したものであるが、年貢率は、六二パーセントと江戸時代に入ってからの年貢率に比してかなり高率であり、厳しい収奪の様子をうかがうことができる。
表6 天正16年(1588)の若狭の石高と物成高

表6 天正16年(1588)の若狭の石高と物成高

注)「太祖公済美録」により作成.

 また、天正十五年には若狭一国が浅野長吉に宛行われたが、この検地を契機に約一万石の豊臣氏蔵入地が設定された。このうち六五〇〇石は天正十九年九月に長吉に加増されたが、三〇〇〇石は木下勝俊・惟俊(利房)が若狭に入部して以降も豊臣氏蔵入地として残された(『浅野家文書』『大日本租税志』)。
 この豊臣氏蔵入地の所在を知ることはできないが、天正十九年に天正十七年分の蔵入地の算用が長吉によってなされており、長吉がこの蔵入地の代官を勤めていたことがわかる(『小浜市史』通史編上巻)。この時の算用状によれば、六四一両が長吉より秀吉に納入され、その内訳は五七三両一分が米五七三二石一斗三升の代金、六七両三分が大豆七四四石七斗五升の代金であった。金一両、米一〇石、大豆一一石の換算であるが、この値段は当時の若狭での米相場金一両米八石よりかなり安い値段であり、算用に当たっての政治的な配慮がみられる。
 さらにこの検地の結果に基づいて長吉は、家臣への知行割を実施した。浅野三十郎に三方郡三方村と遠敷郡日笠村で一六一七石七斗を、浅野安右衛門に大飯郡満願寺村と三方郡北前川村・阿伊田(相田)村で一二五〇石を、脇本荒介に三方郡佐田村・松原村  ・久々子村・安江村で六〇〇石を、岡弥右衛門に遠敷郡玉置村で三〇〇石を宛行っている(「太祖公済美録」)。こうした例からすれば、浅野氏の家臣は地方で知行を与えられ、その知行地はかなり分散的なものであった。



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