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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      慶長三年の越前検地
 慶長三年の越前の太閤検地は、同年五月から七月にかけて個々の領主ではなく豊臣政権の手で実施された。この検地実施は、同年一月二十五日付の藤堂高虎宛増田長盛書状に「加賀二郡越前検地可被仰付由候」とあるように慶長三年一月には決定されていた(「高山公実録」)。
 この検地の惣奉行は豊臣氏五奉行の一人長束正家であった。表7は、この時の検地帳や関連史料からこの検地を担当した者の名を拾って郡別に示したものであり、長束正家を含め伊東長次・井上新介・吉田益庵・小堀正次・木村由信・朽木河内守・駒井重勝・杉若藤次郎・建部寿徳・新庄直忠・長束直吉・長谷川以真・服部正栄・林伝右衛門・速水守久・溝江長氏・御牧景則・山口正弘の一九人の名がみられる。

表7 慶長3年(1598)太閤検地の検地奉行

表7 慶長3年(1598)太閤検地の検地奉行

注) 〔 〕内は,検地帳以外の史料から推定したもの.

 検地は、坂北郡の場合には一〇人の検地奉行によってなされているように、一郡を特定の人物が一人で行うのではなく、数名の奉行によって実施されている。また小堀正次が敦賀郡・足羽北郡・足羽南郡・今南東郡・今南西郡・坂北郡の六郡で、長谷川以真が吉田郡・丹生北郡・南仲条郡・坂北郡・大野郡の五郡で検地を行っているように、それぞれの奉行たちは複数の郡の検地を受けもっていたことが知られる。
 この検地に当たって「越前之国并加賀江沼郡御検地条々」と題する一三か条の検地条目が秀吉の朱印状で出された(「駒井中書日次記」)。その第一条では、六尺三寸竿をもって五間六〇間を三〇〇歩=一反とすることが定められた。
 第二条では、村落・田畠の状況を見極めること、第三条では、田方の斗代は村・田地の上中下に従って決定すること、第三条では、畠方の斗代は桑畠・茶園畠を見計らって決め、夏成のある畠方は帳面に載せ、屋敷方の斗代は上畠並とすること、第五条では山畠の斗代は見計らいとすること、が決められている。一般の太閤検地では田畑の斗代は上田が一石五斗、中田が一石三斗、下田が一石一斗というのが通例であるが、越前の検地ではこの第二条から第五条の規定に従って村況によって異なっていた。表8は、平野部の農村である足羽郡の二上村、山村である大野郡の河合村(勝山市)、浦方の村である敦賀郡の名子浦のそれぞれの斗代をあげたものである。三村でそれぞれの斗代は異なり、実際に規定が適用されていることがわかるとともに、越前検地における斗代は他の国々に比してかなり高いものであったことが知られる。

表8 二上村・河合村・名子浦の斗代

表8 二上村・河合村・名子浦の斗代

注) 「加藤源内家文書」「斎藤甚右衛門家文書」「明光寺文書」により作成.

 第六条では、田畠にならない野や川原を検地の対象としないとし、第七条で村切のため傍示を立て、田畠が入り組まないよう命じている。
 第八条では、升を京升とすること、升には検地衆の判を据えて渡し、これまでの升はすべて取り上げるよう指示している。第九条では、山手銭・塩浜銭・川役・浦役など小物成を念を入れて付け立てることを求め、第一〇条では、年貢納入に当たっての付加税である口米を年貢一石につき二升と定めている。
 第一一条では、検地に当たって竿を打つ者に、給人や百姓に頼まれ依怙贔屓したり、礼銭礼物酒肴菓子などを受けとらない旨の誓紙を出させることが命じられ、第一二条では、薪・糠・藁・草さうし以外は、すべて自賄とすることが定められている。
 最終条では、検地帳は判を据え、地下・庄屋・長百姓・小百姓すべてを召し寄せて渡し、請状を取ることが求められている。
 これらの箇条のうち、文言に若干の違いがあるが第一条・第二条・第八条・第一〇条は、年貢米の運送を五里までは百姓の、それ以上は代官・給人の負担とすることを定めた条目とともに、検地帳の奥に記されている。
 こうして実施された検地は、慶長三年七月二十四日に西笑承兌が小川土佐守に宛てた書状(西笑和尚文案)の中で、一、越前御検地相済、廿日ニ長大(長束正家)・山玄(山口正弘)其外検地奉行之衆不残上洛候、長大・山玄昨日廿三日被罷出候、越前之中十八万圓(石)出合在之由候、と述べているように、七月二十日には惣奉行の長束正家以下奉行衆も上洛し、越前の総石高も把握され完了した。



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