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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      検地の様相
 大谷吉継の南条・丹生・今立の三郡の領地の村々六三か村については検地前と検地後の高を知ることができる。この六三か村のうち、南条郡の四郎丸村が一五六三石から一四二四石へと村高を減少、南条郡の金粕  村で変化がなかったのを除いて、すべての村で村高は増加している。また四郎丸村についても慶長三年の目録では検地前の高を一一七二石としており、これに従えば四郎丸村についても村高は増加したことになる。さらに六三か村全体では、二万六九四四石から三万三四三八石へと約二四パーセント増加している。越前全体では、先の西笑承兌の書状に「越前之中十八万圓(石)出合在之由候」とあるように、一八万石の増加をみ、越前の国高は検地以前の国高四九万九四一一石から六八万石に増加した。
 一方、年貢高についてみると、例えば南条郡の鯖波村では村高は二九三石から三六五石へと二五パーセント増加するが、その年貢は一六七石から一九一石とその増加率は一四パーセントと小さく、さらに南条郡の湯谷村のように村高が三七石から五三石と大きく増加したにもかかわらず、年貢は二三石から二一石と減少した村もあり、全体でもその増加率は高の増加率を大きく下回っている。こうしてみるとこの検地は、一方で石高の増加を実現したものの、年貢量の増加についてはそれほど大きな成果を得なかったことになる。
 またこの検地では田畑以外の塩浜・山手・島手などの把握が同時になされ、各村の生産高の掌握が図られた。例えば坂井郡の黒目村・白方村など一三か村では塩浜の検地が実施され、各村の浜の長さ、塩釜の数が把握され、浜一間につき分銭一五〇文の小物成が定められている(広浜伊左衛門家文書 資3)。
 また敦賀郡の江良浦では、塩浜の分米、小物成である塩浜地子・山手米・薪代米・島手の合計二一石八斗二升四合が、田畠・屋敷の分米三九石四斗二升八合と合わされて村高とされ、村高は六一石二斗四升六合となった(刀根春次郎家文書)。
 大野郡の巣原村  や朝日村では、他の検地では田畑の丈量がなされているのに対し、これらの村の検地帳にはそうした記載はなく、米・大豆・稗の区別とその高のみが示され、それをもって村高としている。このようにこの検地では、丈量不可能な土地にまで生産高掌握の手がのびている(山・吉左衛門家文書・朝日助左衛門家文書 資7)。



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