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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    二 太閤検地と新しい支配
      太閤検地と越前の領主
 越前の領主のなかには、溝江長氏・林伝右衛門など奉行として検地にかかわった者もいたが、大半の領主は自領であっても自ら検地をすることなく、その領地は豊臣政権が派遣した奉行衆によって検地された。それでは、この検地によって越前の領主たちはどのような影響を受けただろうか。
 まず検地によって打ち出された出目についてみてみよう。検地終了後の慶長三年七月二十八日、豊臣秀吉は、幸若小八郎・上田主水や丹羽長正の母に領地を加増するが、その宛行状に「出来半分御加増事、今度以御検地之上相改、令扶助訖」とあり、その領主には打ち出された高の半分が加増されている(桃井雄三家文書 資2、上田家文書、「丹羽歴代年譜」)。
 こうした措置は、上田主水・幸若小八郎などの中小領主だけのものではなかった。敦賀城主大谷吉継の南条郡・丹生郡・今立郡の領地は、検地前には小成物を加えて二万五六七三石、検地による出目は小成物を加えて六二二三石、検地後の領知高は二万九七七四石であり、四一〇〇石余りが加増されている(宮川源右ヱ門家文書・馬場善十郎家文書 資6)。この加増分は、出目の半分をこえるが、領地の一部の割替えによる実質的減少を考慮すれば、出目のほぼ半分が大谷吉継に加増されたとみてよく、出目の半分加増は、全領主を対象としたものとみることができよう。こうした措置は、旧来から領地を持った領主の検地への不満をそらし、検地をスムーズに執行するための手段であったと思われる。
 このような旧来の領主への加増のほかに、検地奉行を勤めた武士を中心に加増を受けた者たちがいる。坂井郡金津付近を中心に二五〇〇石を領知していた溝江長氏は検地後七五〇〇石を加増され、服部正栄は五八四八石を加増され、伊東長次は五〇〇〇石を加増され、それぞれ一万石の領主となった(中村不能斎採集文書・鈴木文書 資2、小沢栄一氏所蔵文書)。このほかにも検地に携わった者で同様の加増を受けた者がいたと思われる。
図3 天正18年(1590)の大谷吉継領

図3 天正18年(1590)の大谷吉継領


図4 慶長3年(1598)太閤検地後の大谷吉継領

図4 慶長3年(1598)太閤検地後の大谷吉継領

 検地後の変化として指摘できるもう一つの点は、豊臣氏蔵入地の増大である。『大日本租税志』に載る慶長三年蔵納目録によれば、越前には一三万一六三七石の豊臣氏蔵入地があった。この蔵入地の高は、同じ史料の慶長三年検地目録に対応するものであり、慶長三年七月の検地以前の高と考えられる。とすればこの検地の出目一八万石のうち七万石ほどが旧来の領主の加増に充てられ、また検地奉行を中心とした者への加増分が一定程度あったことを予測しても、一八万石の約半分は豊臣氏蔵入地に編入されたものと考えられ、検地後の越前における豊臣氏蔵入地の高は二〇万石をはるかにこえるものとなったと推定される。
 こうした豊臣氏蔵入地は、慶長四年四月二十九日付の溝江長氏宛豊臣氏四奉行人連署状に「其方御代官所」とあることや(中村不能斎採集文書 資2)、慶長四年一月の青木一矩の北庄転封に当たって浅野長政と石田三成の出した連署状に「府中羽柴紀伊守(青木一矩)殿御知行、同御代官所」とあるように(木村孫右衛門家文書 資6)、越前に領知を持つ領主たちによって支配・管理されていたと思われる。



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