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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
     三 初期豪商の活躍
      兵粮米・武器の輸送
 織田信長・豊臣秀吉による全国統一が進み、次いで幕藩体制が確立していく過程で、統一政権も各地の大名も兵粮米や武器の運搬、年貢米の売却などのために船を持ち蔵を持つ商人を必要とした。それにこたえたのが初期豪商である。初期豪商は、領主権力との強い結び付きのもとで海運と商業とによって巨大な富を蓄えていった。なかでも畿内と北国とを結ぶ流通の結節点として発展を遂げた越前敦賀・三国、若狭小浜は多くの初期豪商を生み出した。
 領主権力がまず初期豪商に求めたのは、戦いのための兵粮米と武器等の調達・輸送であった。三国の森田三郎左衛門は、天正五年(一五七七)に織田信長が能登へ兵を動かすに当たって、船を提供している(森田正治家文書 資4)。
写真35 織田信長黒印状

写真35 織田信長黒印状

小浜では、天正十一年七月に秀吉から遠敷郡虫生村で知行二六〇石を与えられた豪商木下和泉が、この頃秀吉から兵粮米の運送を命じられ、また天正十二年四月には塩一〇〇石を西路まで運ぶよう、天正十三年には米五〇〇〇石と大豆を加賀に運送し残る米を石見など適当なところで売り払うよう指示されている(岡本栄之氏所蔵文書 資2)。
 敦賀でも高嶋屋や川舟(道川)等が、領主の大谷吉継から早舟三艘で玉薬・鋤・鍬などを三国に運ぶことを命じられている(道川文書 資8)。また慶長の初め敦賀の商人越後屋兵太郎は、当時蝦夷を支配していた松前慶広に「大鉄砲」を送付している(奥富文書)。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵に当たっても、初期豪商たちは様々なかたちで動員された。天正二十年、加賀の前田氏は、敦賀から九州への米の輸送を高嶋屋に依頼し、また残る米の販売を指示している(小宮山文書)。また翌年二月、秀吉は敦賀の商人塩屋新五郎に一艘でも多くの船を肥前名護屋へ派遣し兵粮米を確保することを命じている(川船文書)。同じとき浅野長吉(長政)は、小浜の船持商人である組屋源四郎と古関与三右衛門の二人に、領内と丹後宮津の領主であった細川忠興の米、合計三〇〇〇石と領主の大豆一〇〇〇石を名護屋に運送することを命じた。組屋・古関の二人は、この船賃として米一〇〇〇石につき米二〇〇石を手にし、かつまた持船の水手役を免除された。この時、長吉から米を運搬する船は七、八〇〇石積の船とするようにとの指示がなされており、一度に米三〇〇〇石・大豆一〇〇〇石を輸送したとすれば、組屋・古関は、七、八〇〇石積の船を少なくとも五、六艘所持していたことになる(組屋文書 資9)。
 



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