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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
     三 初期豪商の活躍
      領主米の輸送と販売
 文禄四年(一五九五)、小浜の組屋源四郎は、豊臣政権の米二四〇〇石を金一両二四石の値段で津軽で請け負い、その輸送および売却に当たっている。このとき組屋は、まず六月・七月に二四〇〇石のうち一〇二六石の米を南部で金九五両で売却し、次いで八月に七二〇石の米を金六〇両で同じく南部で売却した。またこの過程で鼠などによる欠損米と諸経費として五四石が除かれ、残る六〇〇石が小浜へ運ばれ、船賃としての二〇〇石を差し引いた残りの四〇〇石が小浜で金五八両で売却された。この後、組屋は、豊臣政権の奉行でもあり小浜の領主でもあった浅野長吉に、米売却の勘定書と米二四〇〇石の代金として請け負った金一〇〇両とを提出し納めている(組屋文書 資9)。
 この一連の米の売却と輸送とによって組屋は、米の売却代金の合計二一三両から浅野長吉に納めた一〇〇両を除く一一三両と船賃の米二〇〇石を得た。この膨大な利潤を豊臣政権が認めたのは、全国統一による国内流通の急速な拡大にその輸送手段としての船舶の供給が追い付かず、その確保のためには豪商たちに頼らざるをえなかったことが最も大きな要因である。
 敦賀の高嶋屋伝右衛門(小宮山)は、加賀の前田利家の蔵宿を勤めている。高嶋屋がいつ加賀藩の蔵宿となったかは明らかでないが、天正十七年に大谷吉継が敦賀の領主になった時にはすでに加賀藩の蔵宿であった。また天正十九年五月には、加賀・能登・越中から敦賀に運ばれた米はすべて高嶋屋に引き渡すことが前田利家から命じられている(小宮山文書)。
 年は不明であるが、前田利家が敦賀に遣わした役人である横地藤介と高嶋屋伝右衛門とに与えた書状では、敦賀での米相場の様子、松任米一五〇〇俵の敦賀着津の報を受けたこと、大豆一〇〇〇俵を送ること、去年買いおいた黒鉄を天守を建てるために使うので早急に送るよう、敦賀の様子を細かに知らせるよう、米を送るための船がなく不自由であるので二人で相談のうえ船を回すよう、等々の指示がなされている。また文禄五年九月には、前田利家が高嶋屋に敦賀にある荷物、縄・炭・塩・竹・釘を使者へ引き渡すよう命じており、高嶋屋は、たんに米の保管販売だけでなく鉄や諸種の品物の調達にも重要な役割を果たしている(小宮山文書)。
 元和二年(一六一六)加賀藩は、年貢米の三分の一を敦賀へ、三分の一を大津へ送り、残る三分の一を地払いとすることにした。その結果、敦賀への米は依然として高嶋屋が取り扱ったが、大津へ送られる米の一部は小浜に運ばれ、その蔵宿に組屋が命じられた。小浜での蔵宿にはのち木下和泉が加わった。そしてその米は、加賀藩から派遣された奉行と相談のうえ、大津の相場を勘案して適当とされた場合には小浜でも売り払われた(組屋文書)。
 三国では慶長二年(一五九七)四月、北庄城主堀秀治が三国問丸中に京都への米の運送を命じ、また加賀藩の家臣斎藤兵部から加賀江沼郡の米一四〇〇〜一五〇〇俵を北潟から三国に出し、それを敦賀へと回漕することが三国の森田弥五右衛門に依頼されている(森田正治家文書 資4)。
 このように初期豪商たちは、領主米の輸送・販売に深くかかわり、多大の利益を手にしたのである。



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