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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
     三 初期豪商の活躍
      太閤板の輸送
 文禄四年豊臣秀吉は、京都内野に築造された聚楽第を破却し、新たに伏見城の建設を始めた。その用材が出羽に求められ、その伐採・搬出は、秋田を領していた秋田実季をはじめとする北奥羽の領主たちが担った。この用材伐出しの費用とそれを敦賀まで輸送する船賃は、出羽に設定された豊臣氏蔵入地からの物成により支払われた。そしてこの「太閤板」と当時呼ばれた材木を秋田から敦賀に運んだのは、北陸・奥羽の諸浦の船持たちであった。
 表9は、文禄四年から慶長四年までの間に、秋田から敦賀に届けられた太閤板の数量、その運搬を請け負った船持の数と、そのうちの越前・若狭の船持の数を示したものである。運送された板の数量は、文禄四年は八〇〇間、慶長元年は五七二間、二年は八五六間、三年と四年は一〇〇一間ずつである。板一枚の大きさは文禄四年分は長さ七尺、厚さ五寸、幅一尺八寸、慶長二・三・四年分は長さ二間、厚さ五寸、四枚で幅一間である。

表9 太閤板の輸送

表9 太閤板の輸送

注) 「秋田家文書」により作成.

 これらの板を運んだ船持は、文禄四年は三人、うち一人が敦賀、一人が小浜の船持、慶長元年は一二人、うち五人が越前、一人が若狭の船持、二年は八人、うち二人が越前の船持、三年は一一人、うち三人が越前、二人が若狭の船持、四年は八人、うち二人が越前、四人が若狭の船持であり、全体四二人のちょうど半数が越前・若狭の船持で占められており、さらにどこの船持かが不明な者が数例あり、そのなかに越前・若狭の船持のいたことが十分想定されることから、当時の北国海運における越前・若狭の廻船の比重はきわめて大きなものであったことが知られる。
 その内訳をもう少し詳しくみると、越前では文禄四年に敦賀の道川兵二郎が四〇〇間の板を金一六両で、慶長元年に三国の治兵衛が一一間一尺六寸を金五両二匁四分で、敦賀の高嶋屋久次が一四・五間を六両一匁六分七厘で、湊を知ることはできないが弥作四郎が一五間一尺六寸を金五両二匁九分六厘で、中村新介が八間四尺九寸を金九両一匁で、久里屋伝左衛門が八間四尺九寸を金九両一匁で、二年に敦賀の道川三郎左衛門が四〇間を金九両一匁九分で、敦賀の高嶋屋良左衛門が五〇間を金一一両三匁三分で、三年に三国の利右衛門が二二・五間を金五両で、敦賀の河野屋彦右衛門が四五間を金一〇両で、敦賀の彦十郎が一五間を金三両一匁三分三厘で、四年に三国新保の新介が四二・五間を金八両二分で、敦賀の道川孫左衛門が五〇間を金一〇両で敦賀まで運送している。
 若狭では、文禄四年に小浜の塩屋甚右衛門が二五三間の板を金一一両一匁六分で、慶長元年に小浜の古関平右衛門が一九・五間を金九両六匁で、三年に塩屋甚右衛門が六三間を金一四両で、川左衛門が四五間を金一〇両で、四年に馬借屋孫三が四二・五間を金八両二匁で、中川小三郎が六二・五間を金一二両二分で、弥兵衛が二〇間を金四両で、溝尾源右衛門が五〇間を金一〇両で、敦賀まで運んでいる(秋田家文書)。



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