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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
     三 初期豪商の活躍
      敦賀の初期豪商
 敦賀で初期豪商と呼びうる商人には、高嶋屋・道川・田中・打它氏がある。道川氏は、中世以来越前・若狭・丹後の諸浦との間で廻船に当たっていた敦賀の川船座の頭分で、当初は川舟氏を称し、兵衛三郎、兵三郎、後に三郎左衛門を名乗った。天正十一年に敦賀の領主となった蜂屋頼隆から道川氏(川舟兵衛三郎)は、これまで同様に地子・諸役・櫂役を免除されている。蜂屋頼隆の後も敦賀の領主となった大谷吉継からは、天正二十年二月に間口一九間、奥行一〇間の地子・諸役・舟三艘の役を免除されている(道川文書 資8)。
 初期豪商としての道川氏は、すでに述べたように慶長二年・四年に太閤板を秋田から敦賀に輸送し(秋田家文書)、五年七月には南部利直からは領内諸浦での舟役を免除され、慶長十三年七月には佐渡奉行大久保長安から六枚櫂の船一艘の櫂役を免除され、さらに秋田藩の蔵宿を勤めており、広く北国に活躍している(道川文書 資8)。江戸時代に入ってからは、加賀大聖寺藩・越後長岡藩・出羽新庄藩などの蔵宿を勤め、また高嶋屋伝右衛門・三宅彦右衛門とともに敦賀の町年寄となった(「遠目鏡」)。
 道川氏の一族には、文禄四年に四〇〇間の太閤板を敦賀に輸送した道川兵二郎(秋田家文書)、領主の大谷吉継に船を提供し、また蝦夷を支配した松前慶広に慶長の初めに「大鉄砲」を届けた越後屋兵太郎などがいる(奥富文書)。
 高嶋屋伝右衛門は、近江国守山の出身で、近世の初頭に敦賀に来住し、天正十七年八月には蜂屋頼隆から奉公を励んだことによって地子を免除された。大谷吉継からも諸役免許などの特権を与えられるが、慶長三年頃それがいったん否定される。しかし同四年八月には屋敷五か所の地子二五貫五九三文と船二艘の役、伝馬一匹の役、町の小役が再び免除された。こうした特権は、その後の領主である、京極氏や酒井氏によっても認められた(小宮山文書)。
 初期豪商としての高嶋屋伝右衛門は、すでに述べたように加賀藩前田氏と深いつながりをもち、天正十九年五月には加賀・能登・越中から敦賀に送られた米を一手に引き受ける蔵宿に命じられている。元和五年二月には加賀藩領諸浦で持船五艘の間役が免除されている(小宮山文書)。また慶長元年に太閤板一四・五間を敦賀に運んだ高嶋屋久次や慶長二年に五〇間を運んだ高嶋屋良左衛門は、高嶋屋伝右衛門の一族かその船の船頭であったと思われる(秋田家文書)。
 田中清六は、天正十年頃から鷹商として奥羽に往来し、中央政権と奥羽諸大名との取次人として活動し、慶長四年豊臣政権の五大老の一人であった徳川家康から北国中の諸浦での諸役を免除された。さらにこの特権は翌年正月、豊臣氏の奉行人から再確認されている。清六は、関ケ原の戦い後、佐渡の検分を家康から命じられ、翌年佐渡の奉行となり、さらに慶長七年七月には佐渡国物成高五〇〇〇石が与えられた。しかし翌八年、同役となった者の不法に連座し、その職を離れた。その後の清六については不明な点も多いが、家康から認められた北国諸浦での特権を維持しつつ敦賀を拠点に廻船業を営んでいたようで、領主からは伝馬二匹を免除されるなどの特権を得ている。田中氏は、その後二家に別れ、敦賀と京都にそれぞれ居を置いたが、敦賀の田中氏は九兵衛を名乗り、蝦夷の松前氏と交渉をもち、また出羽新庄藩・越後沢海藩の蔵宿を勤めている(田中梓文書、住友家文書、「遠目鏡」)。
 打它氏は、江戸時代を通じて敦賀で第一の家格を保持した家である。初代の宗貞は、初め飛騨の金森氏に仕え、茂住銀山を支配する金山奉行を勤めたといわれ、金森長近の死去した慶長十三年頃飛騨を立ち退き、敦賀に来住したようである。飛騨で茂住を称した宗貞は、敦賀では打它宗貞、また糸屋彦次郎と名乗った。 写真36 打它宗貞像

写真36 打它宗貞像
 宗貞は、元和初年には秋田藩の蔵宿を勤め年貢米の輸送や売払いに当たり、また元和七年には幕府が秋田藩に課した軍役板一〇〇枚を能代から敦賀まで運んでいる(『梅津政景日記』)。さらに寛永十一年(一六三四)には加賀藩が能登で行った塩の専売を一手に引き受けている(『加賀藩史料』)。このように打它氏は、比較的遅い時期に敦賀で頭角を現した初期豪商である。江戸時代には福井藩、越後村上藩・長岡藩、出羽山形藩・庄内藩などの蔵宿を勤めた(「遠目鏡」)。
 こうした商業上の活動のほか打它氏は、領主である京極氏や酒井氏に仕え三〇〇石の知行を得、敦賀の代官を勤めるなど領主の支配にも深くかかわった。その後その地位を退くが、藩からは扶持を与えられ、敦賀町・敦賀郡の諸事にかかわり、駄別などの小物成の支配に当たっている(『敦賀市史』通史編上巻)。
 敦賀の豪商ではないが、三国の森田三郎左衛門(のち弥五右衛門)も初期豪商の一人としてあげねばならない。森田氏は、天正五年に信長の能登侵攻に当たって船の手配をするなど早くから中央政権との結び付きをもっており、北庄城主であった堀秀治の米の運送や、加賀藩の年貢米の輸送に深くかかわり、慶長十三年七月には佐渡奉行の大久保長安から佐渡での六枚櫂の船一艘の櫂役を免除され、また遅くとも元和五年には加賀藩から加賀・能登・越中諸浦での間役を免除された(森田正治家文書 資4)。このほか、先に触れた太閤板の運送に当たった船持がおり、その詳細を知ることができないものの、三国には森田のほかにも初期豪商といえる商人たちがいたと思われる。



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