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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
     三 初期豪商の活躍
      小浜の初期豪商
 小浜の初期豪商には木下・組屋・古関・田中氏などがいた。木下和泉は、すでに述べたように天正十一年七月羽柴秀吉から遠敷郡虫生村で二六〇石余りの知行地を与えられ、その頃から兵粮米や塩を秀吉の命で各地に運び、その売払いを依頼され、秀吉領の年貢収納にも深く関与していた(岡本栄之氏所蔵文書 資2)。大名とのつながりも強く、組屋六郎左衛門とともに加賀藩の蔵宿を勤めたこともあった(組屋文書 資9)。
 また木下和泉は、小浜では慶長・寛永期の豪商として江戸時代の人たちの記憶に残っていた人物であり、風呂小路に多門作の屋敷を持ち、日蓮宗の長源寺にあった大坊門の天正二十年十月十一日付の棟札に「奉加施主木下和泉守秀富」とあるように、長源寺の大旦那であり(『稚狭考』)、また浅野長吉が小浜の領主であった時、組屋六郎左衛門・古関利兵衛とともに長井伊賀への屋敷地引渡しを長吉から指示されており、町年寄的な地位にあった(長井健一家文書 資9)。
 組屋六郎左衛門は、『拾椎雑話』に「其家富饒、威力相兼ねて小浜町家の魁首也」と記されたように、江戸時代小浜町人の筆頭に位置し、代々瀬木町に住んで、六郎左衛門を名乗った。慶長十四年に組屋宗円が、江戸時代を通じて組屋が支配した小浜町人から集める公用銭をめぐる訴訟において「此御くようせん(・・・・公用銭)、わたくし(私)のとり申候御事ハ、むかし(昔)よりもわれらしそん(子孫)このくにあきない(商)するものゝおやかた(親方)にて御さ候ゆへにて御さ候」と、また「此御くようせんとり申候御事ハ、五十ねん百ねんの事にても御さなく候、いくひさしきまへからの御事にて御さ候」と主張している(組屋文書 資9)。これを文面どおりに受け取れば、遅くとも戦国初期には組屋は、小浜の商業を取り仕切る地位にいたことになる。
 組屋氏の初期豪商としての活動は、先に述べたように豊臣政権の米を津軽で受け取り、その販売と輸送とを行い、秀吉の朝鮮出兵にさいして兵粮米を朝鮮の前進基地であった肥前名護屋に輸送し、加賀藩の蔵宿を勤めたことにみられる。さらに組屋は、文禄三年に当時珍重されていたルソン壷の購入・売却を豊臣氏の奉行衆からの依頼で行っており、直接海外へ渡航したかは確定できないものの、海外貿易にも深くかかわっていた(組屋文書 資9)。 写真37 ルソン壺

写真37 ルソン壺
 また組屋氏は、木下氏と同様長井伊賀への屋敷地の引渡しに関与し、さらに天正十七年に桑村玄作入道に和田通船の特権承認の申渡しには古関とともに当たっており、当時小浜の町奉行と町年寄を兼ねるような地位にいた。さらに組屋氏は、戦国期以来領主の年貢請負を行い、京極氏の時代になっても領内の村々の代官としてその収納に当たっており(組屋文書 資9)、領内支配の一端をも担い、江戸時代にはたびたび町年寄になっている。
 古関氏については多くを知ることはできないが、組屋・木下和泉とともに長井伊賀への敷地引渡しに関与した利兵衛、秀吉の朝鮮出兵に当たって組屋とともに兵粮米を肥前名護屋に運送することを命じられた与三右衛門、慶長元年に太閤板を秋田から敦賀へ運んだ平右衛門、天正十七年に桑村玄作入道に和田通船の特権承認の申渡しに組屋と当たった古関が、同一人物ないし一族であるとすれば、古関氏も組屋氏や木下氏と同様の性格をもった初期豪商であったと思われる(組屋文書 資9、秋田家文書)。
 田中氏は、達磨小路に住み、宗徳の代の慶長二年、木下勝俊から居屋敷の地子と諸役の免許を受け、子の有嘉(祐賀)も寛永八年に京極忠高から家屋敷と船諸役の免許を受けた商人である(長井健一家文書 資9)。有嘉については『拾椎雑話』に次のような話が載せられている。有嘉は、五〇〇石積の船で津軽へ銀五〇〇目を持って毎年通い、そこで五〇〇石ばかりの米を買い、その米から屑米と籾をえりだし、それをえり賃に渡し、残る上米を小浜に運んで一倍の利益をあげた。また津軽が飢饉の時に津軽氏から米を津軽に運ぶよう頼まれ、米と麦を運び、領主から津軽朱二櫃を下賜された。有嘉はこの朱を京都で売ろうとして朱座に咎められ、宗徳の断りでなんとかことが済んだ。そこでこの朱を使って器物を作り、摂津の幕府代官でもあり田中氏と親類であった高西碩雲(夕雲)と当時縁のあった西福寺に寄進した。この話は、後世に伝えられたものであることを考慮する必要があるが、田中氏も、領主との深いつながりをもった船持商人として海運に携わった初期豪商の一人に数えることができよう。



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