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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    一 幕府と藩
      大名と藩
 江戸時代の大名は、徳川将軍から一万石以上の領知を宛行われ、将軍に対して軍役奉公を義務付けられていた者をいう。小は一万石の大名から、大は一〇〇万石をこえる加賀前田家まで、その数も寛文四年(一六六四)で二二五家、幕末には二八五家に及んでおり、ひと口に三百諸侯といわれるのも、あながち誇大な表現ではなかったのである。大大名の家臣のなかには一万石をこえる知行を持つ者もいたが、将軍からではなく大名から与えられたものであるから、たとえ城を預かっていたとしても大名とはいえず、将軍との関係では又者(陪臣)であった。将軍から一万石未満の知行を賜ったのが旗本である。
 一般に大名が支配する領域と支配機構を藩と称し、支配者である大名を藩主、その家臣を藩士というが、江戸時代には、福井県とか石川県とかいう意味で、福井藩・加賀藩と呼ぶことはなかった。もともと藩とは、藩屏という語に由来するといわれるが、正式に藩と公称されたのは明治元年(一八六八)のことである。とはいえまったく使用されなかったというわけではなく、「江戸幕府日記」には十七世紀に「紀藩」のごとく書いた例がみられ、また『越藩史略』のように書名に用いられているし、幕末ともなると「弊藩」「尊藩」などと盛んに使用され、さらには府中本多家を指して「府中藩」といっていることさえある。本書では、紛らわしさを避けるためにも、丸岡藩・小浜藩のように原則として城下町の名をもって呼ぶことにする。ただし、福井藩の場合、城下町は初め北庄ではあるが北庄藩とせず、当初から福井藩と称することにした。



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