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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    一 幕府と藩
      所領配置
 大名の所領は城下町を中心に集中していたとは限らない。若狭は京極氏から酒井氏へ引き継がれた小浜藩領のみであったが、越前では松平忠直改易のあと多くの藩が成立し、その後幕府領や旗本領も置かれたので、きわめて錯綜した所領配置になっていた。例えば坂井郡は、初めすべて福井藩領であったが、寛永元年(一六二四)に丸岡藩領、さらに同三年旗本本多領、正保二年(一六四五)吉江藩領と松岡藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄十年(一六九七)葛野藩領、その後明和元年(一七六四)には三河西尾藩の所領が置かれ、吉江藩と松岡藩・葛野藩はやがて廃藩、福井藩と丸岡藩には加増もあるなど激しく変化している。
 他方、所領が一郡にまとまっていたのは小笠原氏の勝山藩くらいであって、大野藩領が丹生郡に、丸岡藩領が南条郡に、小浜藩領が今立郡・南条郡にというように、城下町からはるかに離れた所に置かれることもあった。貞享三年以降の福井藩も北陸道沿いをほとんど所領としたので、南北に長く延びる形になっている。このほか一時的ではあるが、紀州の松平頼職(高森藩)と後に将軍吉宗になる松平頼方(葛野藩)の兄弟や、将軍綱吉の生母桂昌院の親戚である本庄宗長へも与えられたほか、大坂城代になった土岐氏や松平氏(西尾藩)のように、越前に本拠をもたない大名の所領も置かれた。
 これらは幕府領をもって充てられたから、幕府領もそのつど増減したのである。そのため村によってはめまぐるしく領主が交替したり、相給とか割郷といって一村が複数の領主に与えられることもあった。このような事情から、山林や用水をめぐる争論が他藩との争いにまで発展し、より複雑になって長期化する傾向をもつようになったのである。



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