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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    一 幕府と藩
      大名の種類と家格
 大名は、将軍の直臣であるという面からみれば、領知高の大小にかかわりなく、すべて同格であったともいえるが、実際には様々に区分されていた。江戸時代から行われたものに次のような種類がみられる。(1)将軍との親疎により一門(御三家・家門)・譜代・外様などに分ける。若越の諸大名では、福井松平氏とその分家筋が一門、有馬氏が外様、その他はすべて譜代であるが、有馬氏が譜代格とされて老中になるなど、かなりあいまいな面をもっている。なお、松平氏は家門であり親藩ともいうが、本書では一門と称することにする。(2)領域の大小や城郭の有無によって、国持・城主・無城などと分けるが、時期によっても異なるので、これも明確とはいえない。(3)大名は、参府や帰国の時、また「朔望の登城」といって、月々の一日と十五日に江戸城に登って将軍に拝謁したが、この時の控間によっても分けられた(表10)。役職によっても変わるので、これも固定的なものではなかった。ちなみに、加賀前田氏や津山松平氏も大廊下、松江や明石の松平氏が大広間、鞠山と勝山の両酒井氏は菊間であった。(4)その他、朝廷が叙任する位階・官職や、領知高によっても区別されている。
 大名の家格は、これらが複雑に組み合わされて序列付けられており、それによって将軍の扱いにも差があった。例えば、将軍から賜る領知宛行状は、一〇万石以上の大名には「領知判物」といって将軍の花押が据えられていたのに対して、一〇万石未満の大名へは朱印を捺した「領知朱印状」が与えられたが、侍従になると「領知判物」に変えられた。
 また、江戸時代の大名は、徳川氏の旧姓である松平氏を称することを許されたり、将軍の諱(実名)の一字を賜ることを無上の光栄とするところがあった。豊臣秀吉も羽柴賜姓を盛んに行っているが、苗字や名前の一字をもらうこと自体、秀吉や将軍に臣従したことを示すものにほかならない。松平賜姓のことは外様の大大名に限られており、有力大名に松平氏を名乗らせることによって、擬制的な家族関係を結んだものとされている。若越の諸大名では、福井の松平氏やその分家は本姓であるから賜姓とはいえず、その他の大名にもこの例はない。
 一字を与えられることを「偏諱を賜う」といい、元服  のとき将軍の名前の下の字をもらって自分の名の上に付けるものであり、その家を「御一字頂戴の家」と称した。これも一門の一部と外様の大大名にほぼ限定されており、若越の諸家では福井松平氏のみに該当する。忠直は秀忠の、慶永(春嶽)は家慶の一字を賜ったのであり、松平昌平は松岡藩主としては偏諱を賜ることはなかったが、福井藩を継いだことによって初めて吉宗から一字を許され宗昌と改めることができた。ついでながら最後の藩主松平茂昭は、家茂の一字をもらったものだから「しげあき」ではなく「もちあき」とよまねばならない。
 なお、松平氏以外の大名家では、諱に用いる家の字ともいえるものがあった。本多氏の「重」、有馬氏の「純」、小笠原氏の「長」、土井氏の「利」、間部氏の「詮」、酒井氏の「忠」などであり(表10)、これを通字という。
表10 諸大名の控間と位階・官職

表10 諸大名の控間と位階・官職
注) 文化元年「武鑑」・諸家系図による.

 このほか、大名の着衣の色や形、乗物の種類、あるいは供連れの人数や持道具、藩邸の門構え、さらには書札礼(書状の様式や敬称の使い方、文字の崩し方など)に至るまで、家格によって厳重に規定されていた。大名の序列付けは、幕府の巧妙な大名統制策を示すものにほかならないが、大名もまた家格の維持や上昇になみなみならぬ意欲と関心を抱いている。『通史編4』で述べるように、松平氏は貞享三年の領知半減によって家格も下げられ、それまでの慣行や作法の変更を余儀なくされたため、復活に執念を燃やすのもそのことを物語っているといえよう。



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