目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    一 幕府と藩
      証人と巡見使
 幕府が武家諸法度によって大名を統制し、これに違反した大名を処罰したことはよく知られている。このほかにも幕府は、証人制や諸国巡見使の派遣によっても、諸大名を牽制するところがあった。証人は、大名の家族を人質として江戸に住まわせたことに始まり、やがて重臣の子息を差し出させるようになったとされる。正保四年には幕府の証人規定も定められている(「家譜」)。
 福井藩の場合、慶長十年(一六〇五)四月忠直が初参府して、秀康が死去するまでの二年間江戸に住んだことも人質の意味をもったとみられるが、重臣の子息としては元和元年(一六一五)本多富正の嫡子千菊(昌長)をもって嚆矢とする。その後忠昌の時の寛永十九年、昌長が弟の重富に代ったあと、太田安房息・加藤康寛息・狛伊勢息・杉田主水息などが江戸へ送られ、光通の時にも松平正詮息が証人になっている。証人制は、四代将軍家綱が寛文三年の殉死の禁に続いて同五年停止するまで続けられた。
 諸国巡見使は、寛永十年初めて全国に派遣され、以後将軍の代替りごとに遣わされるのが例となった。表11は、越前・若狭へ来た巡見使を示したものである。幕府は諸事質素に迎えるように指示しているが、諸藩の支配ぶりや民情を視察することを任務としたので、木本藩で道を作り茶屋を建てたと伝えられるように(五畿屋文書 資7)、迎える側は気を遣うところもあったが、結果的には道路などが整備された。また、百姓に巡見使の質問に滞りなく答えさせるために、藩は「御尋返答書」などという模範回答を作って、村々に写し置かせることまでしている。そのため中期以降は形式化したといわれるが、初めは大いに実効があった。

表11 幕府巡見使

表11 幕府巡見使
注) 『敦賀市史』通史編上巻による.



目次へ  前ページへ  次ページへ