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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第三節 豊臣政権と若越
    一 越前・若狭の大名配置
      賎ケ嶽の戦い後
 天正十一年(一五八三)四月の賎ケ嶽の戦いによる柴田氏の滅亡は、越前・若狭の大名配置を大きく変化させた。
 まず若狭および近江志賀・高島二郡を領していた丹羽長秀が、賎ケ嶽の戦功によって越前および加賀半国を与えられ、越前北庄に入部した。ただこのうち加賀の江沼郡と能美郡の二郡の大半は、丹羽長秀の家臣であった溝口秀勝と村上義明とが領することになった。
 ところで豊臣秀吉が溝口秀勝に宛てた領知宛行状には「越前国賀州内余外字(江沼)郡・能美郡両郡、惟五郎左(丹羽長秀)へ一職申談候之処、余外字郡之儀、其方へ惟五被進之候」とあり(溝口文書 資2)、このとき越前一国が丹羽長秀に与えられたかにみえる。しかし越前のすべてが長秀の領地になったわけではなく、大野には賎ケ嶽以前から金森長近がおり、敦賀郡には賎ケ嶽の戦いのあと蜂屋頼隆が入った。金森長近は、引続き大野を中心に大野郡の約三分の二を領していたが、勝山へは丹羽長秀の家臣成田重政が入り(久保長右衛門家文書 資7)、大野郡の一部は長秀の領地であった。
 一方敦賀の蜂屋頼隆は、山内半左衛門に南条郡の四郎丸村において知行一〇〇石を宛行っており(山内長右衛門文書)、その領地は敦賀郡だけでなく南条郡にも広がっている。その領知高は、『多聞院日記』は五万石とするが、表3に示したように天正十六年の「大仏殿普請人足割付帳」の割付人数からの推計では四万石となる。

表3 天正16年(1588)の大仏殿普請人足と文禄3年(1594)伏見普請役

表3 天正16年(1588)の大仏殿普請人足と文禄3年(1594)伏見普請役
              注1 「橋本佐賀鍋島家文書」「当代記」により作成.
              注2 (  )内の数字は推計.

 長秀が越前に転封した後の若狭は、三方郡を中心とした地域を木村隼人佐が、大飯郡を堀尾可晴(吉晴)が領有した。木村隼人佐の三方郡領知については、「上瀬宮祭礼田楽頭文」の天正十一年分の注記に「木村隼人ケンチ(検地)候テ諸神事タイテン(退転)也」とあることや(宇波西神社文書 資8)、木村隼人佐の家臣である木村由信が天正十二年八月十八日に三方郡早瀬浦へ裁許状を出していることなどから確認することができる(早瀬区有文書 資8)。また木村隼人佐は、遠敷郡本保村での殺害事件に対し百姓たちに弁明を求め、かつ私検断を禁じており(清水三郎右衛門家文書 資9)、その支配が遠敷郡にも及んでいたことがわかる。
 大飯郡は、それ以前高浜にいた丹羽長秀の家臣溝口秀勝が天正十一年四月に加賀江沼郡に移り、その後に堀尾可晴が入部した(『譜牒余録』)。次いで天正十三年六月、堀尾可晴の跡に山内一豊が入り大飯郡を領した。そのとき出された秀吉の領知宛行状をあげておこう(『山内家史料』一豊公紀)。若州西懸郡(大飯郡)一円令扶助畢、令全可領知者也、
 天正十三
 六月二日 秀吉(花押)
 山内伊右衛門(一豊)殿
 一豊は、同年閏八月二十一日に四か月たらずで近江に転封となった。それもあって在地ではその領知を示す史料を今のところ見いだすことができていない。

[準備中]

写真28 堀尾可晴像

 遠敷郡は、一部が木村隼人佐の領地であったが、天正十一年七月に豊臣秀吉が建部寿徳に遠敷郡若狭浦で二一六石余りを(『源喜堂古文書目録』七)、小浜の豪商木下和泉入道に遠敷郡虫生村で二六〇石を宛行っていることから(岡本栄之氏所蔵文書 資2)、大半は秀吉の領有下にあったと思われ、その支配には郡代となった建部寿徳が当たった(『寛政重修諸家譜』)。



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