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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     四 賎ケ嶽の戦い
      賎ケ嶽の戦い
 北陸の雪解けを待ちかねたように天正十一年三月三日勝家軍の佐久間盛政・安政、柴田勝安、前田利家、不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現が北庄を進発し、やがて勝家も北庄をたって近江伊香郡柳ケ瀬に本陣を構えた。すでに二月中旬より秀吉の大軍が伊勢の長島・桑名などの城に篭城する滝川一益に対する攻撃を開始していたからである。勝家軍総勢二万八〇〇〇人に対して、秀吉はかねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢二万五〇〇〇人を余呉湖周辺に配置していたが、勝家の出兵を聞くと滝川攻撃は信雄に委ね、三月十七日近江に戻った。
図2 賤ケ嶽の戦い配置図

図2 賤ケ嶽の戦い配置図



写真25 佐久間盛政(賤ケ嶽合戦図屏風)

写真25 佐久間盛政(賤ケ嶽合戦図屏風)

 この後、秀吉方の丹羽長秀が若狭口より敦賀に乱入するなど小競り合いがあったが、両軍にらみ合いのまま日を過ごし、両陣営とも先に述べたような外交策を展開している。四月十三日に勝豊配下の山路正国が勝家方に寝返り秀吉軍の防備の弱点を告げた。また、一度は秀吉に降伏していた岐阜城の信孝が兵を挙げたため、秀吉は四月十六日に自ら兵を率いて美濃に向かった。これを察知した佐久間盛政は秀吉方の武将中川清秀の守備する大岩山までひそかに侵入し奇襲攻撃を敢行する作戦を勝家に進言し、勝家は大岩山攻略の後はただちに兵を返すことを条件にこれを許可した。四月二十日未明、敵に気付かれることなく大岩山に迫った盛政・安政など八〇〇〇人の軍勢はこれを攻略し、守将の中川清秀も討ち死にした。さらに賎ケ嶽の守将桑山重晴も日没とともに砦を盛政軍に引き渡すという約束をするまでに追いつめた。奇襲が大成功した盛政は勝家との約束に従わず大岩山で夜を明かすことにした。これを知った勝家は大いに怒ったという。
 盛政が大岩山に駐屯したのは、美濃に出兵している秀吉がまだ引き返しては来ないだろうという情勢分析に基づいていたが、二十日の昼過ぎ大岩山攻撃を知った秀吉は大垣城より五二キロメートルの道程をわずか五時間で引き返すという信じがたい機動力を発揮し、翌二十一日午前二時より二万の軍を率いて盛政追撃戦に移った。盛政はなんとか権現坂まで撤退し、また後世に賎ケ嶽の七本槍として知られるような秀吉軍の猛兵の追撃を受けた三左衛門(勝安)軍も大きな打撃を受けながら、盛政軍と合流しようとしていた。しかし昼前に盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光もまた戦場から遁走を始めた。
 これを機に勝家軍は総崩れの状態となり、狐塚で堀秀政・羽柴秀長の軍と戦っていた勝家の回りの兵も減少し、秀吉軍に決戦を挑むこともできなくなっていた。そこで家臣の毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代りとして奮戦している間に勝家は北庄へと落ちのびたのである。
写真26 柴田勝安(賤ケ嶽合戦図屏風

写真26 柴田勝安(賤ケ嶽合戦図屏風)

 北庄城にたて篭る勝家に対し、愛宕山(足羽山)に居陣した秀吉の攻撃は四月二十三日より開始され、その日のうちに総構は攻略され本丸を残すのみとなった。『太閤記』などによれば落城を覚悟した勝家はこの夜に重臣の中村聞下斎宗教・小島若狭守等と別れの宴を開いたと伝える。翌二十四日の攻撃に対し勝家は七度まで門を開いて切って出たが、ついに午後五時頃妻のお市を殺し、自ら九重の天守閣に上がり勝家が腹の切り様を後学のために見ておかれたいと攻撃軍に声をかけたのち自刃した(『毛利家文書』)。勝家の子の権六と佐久間盛政も潜伏していたところを捕えられ殺された(『兼見卿記』)。なお、お市と先夫浅井長政とのあいだに生まれた三人の娘は秀吉に引き渡され、のち長女は淀殿(ちゃちゃ、秀吉室、秀頼母)、次女は常高院(はつ、京極高次室)、三女は崇源院(ごう、徳川秀忠室)となる。
写真27 柴田勝家の馬標(部分)

写真27 柴田勝家の馬標(部分)



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