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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     四 賎ケ嶽の戦い
      勝家と秀吉の対立
 清洲会議において主導権を発揮した秀吉は、十月十五日に洛北大徳寺で信長の葬儀を、信雄・信孝や勝家を排除して挙行した。すでに勝家は十月六日の堀秀政宛の書状において秀吉の独断専行を非難しており(「南行雑録」)、秀吉も信孝が勧めた勝家との和睦を断ったため(松花堂所蔵古文書集)、秀吉に反感をもつ信孝・勝家、および滝川一益による反秀吉同盟が形成された。
 十一月二日に勝家は軍勢を長浜に派遣するとともに(中村不能斎採集文書)、もし戦闘となれば降雪のために兵力や武器・弾薬の補給が困難となることを恐れて、時間稼ぎのために勝豊・前田利家・不破勝光・金森長近を秀吉のもとに遣わし講和を試みさせている。しかし秀吉は講和すると見せて、十二月には長浜城の勝豊を包囲した(『兼見卿記』)。勝家の援軍が雪に阻まれているなかで勝豊は秀吉に降伏し、この後は秀吉方となる。軍記物類は勝豊が勝家を裏切った理由として勝家に実子権六が生まれた後は養子勝豊は勝家より疎んじられていたことや、勝豊は勝家重臣の佐久間盛政と仲が悪かったことなどをあげている(『太閤記』「賎ケ岳合戦記」)。
 翌天正十一年になると、秀吉、勝家ともに有力大名を味方につけようとして外交策を強めた。すなわち秀吉は二月に越後の上杉景勝に対して、勝家の背後を脅かすため越中・能登への侵入を要請しており(阿波木村文書)、四月には本願寺顕如にも加賀の一揆に命じて加越を錯乱させるよう求めている(本願寺文書)。勝家もすでに前年末に徳川家康のもとに使者を送っており(『家忠日記』)、また帰洛を望む前将軍義昭を通じて、毛利輝元を味方に引き入れようとした(『毛利家文書』)。ただしこの外交策では双方ともに積極的な軍事的支援を引きだすことはできなかった。



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