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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     四 賎ケ嶽の戦い
      清洲会議
 天正十年六月一日夜から二日の朝にかけての信長・信忠親子の不慮の死(本能寺の変)を四日に知った羽柴秀吉は、信長の死を秘して備中高松城で対戦中の毛利軍と講和を結び、ただちに引き返して十三日には山崎の戦いで明智光秀を破った。越中で上杉景勝軍と対戦中であった柴田勝家等北陸勢は六月八日以前には兵を引き、柴田勝豊・勝安・佐久間安政が近江に出兵しているが(中村不能斎採集文書)、光秀攻撃には間に合わなかった。ただし、六月十八日付で柴田軍の乱妨を停止する旨の勝家の禁制が近江坂田郡加田荘に出されているので、勝家は近江長浜周辺を押さえたものとみられる(小川武右衛門氏所蔵文書)。なお、武田元明はこのとき光秀に通じたとして七月十九日に近江海津法雲寺で殺されている(「高野山過去帳」)。
 六月二十七日に、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興等信長の宿老が尾張清洲に参会し、信長の後継者の選定と遺領配分について定めた(『多聞院日記』)。これを清洲会議というが、会議では信長の後継者として信長三男の信孝を推す勝家と、信長嫡子信忠の子三法師(秀信)を推す秀吉が対立した。この件に関しては「筋目」を主張する秀吉に他の宿老も賛成し、三法師が近江安土城を再建して家督を継ぎ、宿老たちがこれを盛り立てることとされた。信長遺領や明智光秀旧所領の配分については、信長二男の信雄がこれまで支配してきた伊勢に加えて岐阜城のある美濃を相続し、三男信孝が清洲城によって尾張を支配することになるとともに、秀吉はそれまでの播磨に加えて山城・河内・丹波を領し、長秀は若狭のほかに近江の志賀・高島の二郡を知行して、旧領の近江佐和山を堀秀政に譲ることになった(『浅野家文書』『太閤記』)。また、勝家は養子の勝豊等を派遣して長浜辺りを押さえており、これは越前から南進する時の拠点を近江に求めようとする勝家の戦略を示すものと思われる。秀吉はこの勝家の意向を配慮し、長浜城とその所領を勝家に譲った。勝家は勝豊を長浜城に入れたが、勝豊は八月二十四日に長浜を除く坂田・浅井・伊香の三郡について徳政令を発しており(菅浦文書)、新領主たることを明らかにしている。なおこの清洲会議で信長の妹のお市(小谷の方、もと近江小谷城主浅井長政の室)が勝家のもとに嫁ぐことが決まり、十月頃彼女は三人の娘を連れて北庄に赴いたと考えられる。
(財)高野山文化財保存会 高野山霊宝館ホームページへ
写真24 お市の像



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