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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     四 賎ケ嶽の戦い
      上杉軍・加賀一向一揆との戦い
 天正四年(一五七六)、本願寺顕如と結んで反信長の態度を明らかにした上杉謙信は、十一月に能登畠山氏の再建を名分として七尾城の攻撃を開始した。翌五年閏七月より謙信の攻撃はいちだんと激しくなり、畠山氏の重臣遊佐続光の内応もあって九月十五日に七尾城は落城する。これに対し柴田勝家を惣大将として加賀に進んだ信長勢は、加賀の南二郡(江沼郡・能美郡)の一向一揆を制圧したが、九月二十三日の手取川の夜戦で謙信の軍に大敗した。
 しかし翌天正六年三月に謙信が没すると、上杉氏の家督争いが景勝と景虎とのあいだに起り、これに乗じて能登においても長好連など信長方の活動が盛んになった。この年、信長軍の主力は播磨などで毛利輝元・本願寺方と対戦しており、勝家も長好連に対し来年の出兵を約束しただけであった(長家文書)。翌七年八月に勝家は加賀に侵入しているが(『信長公記』)、戦局に大きな変化はなかった。ところが翌八年閏三月に信長と本願寺顕如とのあいだに講和が成立する。その講和の条件の一つに、勝家が支配下に置いている加賀の南二郡を本願寺に返すことが約束されており、信長も勝家に加賀における攻撃を停止する「矢留」を命じている(本願寺文書)。しかしこの加賀における和平と撤兵の約束は守られず、この閏三月中に勝家・佐久間盛政などの軍勢は進んで金沢坊を攻撃した。四月末には加賀はほとんど信長軍によって制圧されており(楠文書)、残るは信長との和平に反対する本願寺教如の指示を受けて手取川河谷地域によって抵抗する山内衆のみとなった。この山内衆と勝家軍との戦闘は天正十年頃まで続くが、勝家は加賀をほぼ制圧した天正八年十一月に加賀一向一揆の指導者の首を信長のもとに送り、さらに翌九年二月には上洛して信長に加賀平定の報告をしている(『信長公記』)。
 本願寺との講和条件を無視して加賀を攻略したのが信長の指示によるのか、勝家の判断によるのかは明確でないが、天正八年八月に信長は重臣の佐久間信盛を追放した時の折檻状の中で、勝家は越前一国を支配しながら他の信長武将と比較してさしたる手柄がないとの風評を残念に思い、この春に加賀一国を鎮圧したのだと述べている(『信長公記』)。信長のこの折檻状は手柄のない武将を戒める効果をねらったものであるから、言葉どおりには受け取れないとしても、勝家にとって加賀平定はまさに自己の存在意義を明らかにする機会であったといえよう。



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