右に述べた指出と関連して、天正九年からの新しい動きについて触れておこう。天正九年四月十六日に高浜城主逸見昌経が病死した。丹波国において信長と敵対していた波多野兄弟・宇津頼重等は明智光秀によって二年前の天正七年七月までに討滅されていたが、信長はこの方面に対してなお警戒を緩めず、昌経跡をそのため活用しようとした。すなわち信長はこの昌経跡八〇〇〇石を没収して、武藤上野跡・粟屋右京亮跡からなる昌経新知行分三〇〇〇石は武田元明に与え、残りの昌経本知行分五〇〇〇石は長秀に幼少のとき以来奉公してきた長秀家臣の溝口秀勝に与えたのである。そして秀勝は「若州に在国仕り」「若州の儀、万一不届の事あらば、軽重に寄らず言上すべし」という目付の役割が信長より命じられている(溝口文書 資2、『信長公記』)。秀勝は近江佐和山城を本拠とする長秀の重臣としてこれまで若狭の支配に当たっていたが、逸見氏没後の大飯郡を支配するとともに、若狭の目付として信長や長秀の若狭支配を強化する役割を担うこととされたのである。天正十年十月に長秀は国侍の山県源三郎父子・松宮勝左衛門尉・香河平兵衛・内藤佐渡守・粟屋右衛門大夫を近江海津の城番として動員しているが、その動員は粟屋勝久・熊谷伝左衛門・山県下野守という有力国侍と、溝口秀勝・山庄喜左衛門という長秀配下の武将を通じて命令されている(山庄家文書 資2)。これは信長の没後、長秀の命令を受けて若狭の国侍の支配に当たる中枢組織のなかで、秀勝など長秀の手足として働く武将の比重が大きくなっていったことを示している。 |