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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     三 丹羽長秀の若狭支配
      農民支配
 農民支配については武田氏の時代のありかたを踏襲していた。具体例として小浜西福寺領のうち五反一八〇歩について武田氏時代の大永五年(一五二五)と丹羽長秀時代の指出とを比較した表2を見られたい(西福寺文書 資9)。これによると四斗七升入という秤量升を浜升丁入(四斗七升入一石が浜升丁入〇・九四石に相当する)に換算したほかは基本的に大永五年の時の分米・本役米・反銭が維持されている。また天正十年七月の妙楽寺領遠敷郡柄在家名指出には分米五石のうち本役米三石とみえているが、この本役米は天文十二年(一五四三)に山県千代鶴が妙楽寺に寄進した時の本役米の額と同じであり、したがって妙楽寺が収納する二石の内徳にも変化がなかった(妙楽寺文書 資9)。反銭は西福寺領においては七月から九月にかけて三度に分けて丹羽長秀の重臣である溝口秀勝と山田高定に納入されているが、この三度に分けて納入される反銭はすでに武田氏の時代にみることができるものであり、全体の納入額に対し月ごとの納入額が占める比率も長秀時代にほぼ等しい(栗駒清左ヱ門家文書 資9)。長秀が検地を行ったことを示すものはなく、また内徳を否定したという例もないので、本役・反銭の収納者は武田氏時代と同じような支配を続け、また内徳収納者も依然として得分を確保していたと判断される。

表2 西福寺領5反180歩の年貢などの比較

表2 西福寺領5反180歩の年貢などの比較

 妙楽寺には右にあげたもののほかにも天正十年の指出が伝えられており、信長の本能寺の変後に長秀は遠敷郡において給地を持つ者に対して指出の提出を命じたものと思われる。西福寺や妙楽寺の例から、指出は本役・反銭・内徳の額の掌握が意図されており、さらに領内の升を浜升に統一して表示することが求められていたと推定される。ただし作人は誰であるのかは問題とされていないので、農民支配のための台帳として指出提出が求められていたわけではない。



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