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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
     三 丹羽長秀の若狭支配
      若狭三郡の支配
 丹羽長秀は天正元年九月に小浜長源寺と若狭一二宮社頭の遠敷滝村に禁制を発しており(長源寺文書・若狭彦神社文書 資9)、朝倉氏滅亡後すぐに若狭支配を始めたことが知られる。この後も長秀は柴田勝家滅亡後の天正十一年四月末に越前に転封されるまで、遠敷郡の西福寺・羽賀寺・長源寺の寺領安堵、遠敷郡金屋の鋳物師に対する金屋職の安堵(芝田孫左衛門家文書 資9)、小浜の豪商桑村氏の船・家についての課役免除(桑村文書 資9)、武田氏旧臣の白井氏に遠敷郡賀茂荘の代官職の安堵(白井家文書 資2)などを行ったことが知られる。これらの例から長秀は遠敷郡を統治する権限をもっていたことがわかる。ただし信長より所領・所職として認められた地を持つ国侍は、その地に対する領主としての支配権を行使しえた。武田氏の有力家臣であった山県秀政が天正元年十二月に遠敷郡谷田寺領を安堵し(谷田寺文書 資9)、同八年に税所領であった常満保福同名の名主職を妙楽寺僧に補任しているのがその例である(妙楽寺文書 資9)。
 長秀が遠敷郡以外に発した文書としては、天正七年四月に三方郡丹生浦の山海境を先例に任せて保証したものが一点知られるだけである(丹生区有文書 資8)。この文書は丹生浦の支配者であった内藤佐渡守が支配を辞退したために、新領主が決まるまでの年貢の処置を含めて浦人に指示したものであるから、臨時的な権限とみるべきであるが、国内において与力とされている武士の所領にこのような移動がある時には長秀の支配下に置かれたことを示している。
 三方郡については、天正元年九月に勝長という人物が竹波に立網の権限を保証しているが(中村幸雄家文書 資8)、この勝長は永禄四年に山東郷の田辺氏の土地を安堵しており(田辺半太夫家文書 資8)、武田氏の時代からの支配権が引き続き認められている。ただしこうした支配権は、信長より武田氏旧臣に与えられた給地における支配権を示すものとも考えられるので、そうした給地支配をこえた郡規模の統治に当たっている者の存在が問題となる。この点で、寛永八年(一六三一)南前川村人の訴状が、天正七年頃の用水紛争は粟屋勝久と熊谷伝左衛門のそれぞれの内の者が「奉行人」として裁許したと伝えていることが注目される(野々間区有文書 資8)。粟屋勝久は三方郡佐柿国吉城によって朝倉氏に抵抗した人物として知られ、熊谷氏は武田氏の若狭入部前後より三方郡に勢力を有した武将であるから、この二人が三方郡において他の武士とは区別される支配権を委ねられていたと考えてよいのではなかろうか。天正五年九月に粟屋美作守長景と市村八郎右衛門尉が日向浦と早瀬浦の網場紛争についての裁決を奉書で伝えているが(渡辺六郎右衛門家文書 資8)、この粟屋長景は粟屋勝久の配下と推定される(白井家文書 資2)。
 大飯郡については史料が欠けているが、高浜城主の逸見昌経が天正九年四月に没するまで、本・新知行分合わせて八〇〇〇石を領した郡であるので、郡内に大きな勢力をもっていたと考えられる。
写真22 高浜城跡付近

写真22 高浜城跡付近

 越前の朝倉氏が滅び、丹羽長秀が若狭に入部することにより武田氏の領国は最終的に解体され、武田氏旧臣は信長の家臣となり、若狭衆と称されて長秀の与力とされた。また長秀が遠敷郡、粟屋勝久・熊谷伝左衛門が三方郡、逸見昌経が大飯郡についてそれぞれ大きな勢力をもったが、長秀は若狭衆を与力として軍事的に支配する権限を有していたことから、若狭衆の所領について支配することがあった。



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