永禄十一年(一五六八)八月に武田氏当主の元明が朝倉氏に従って越前に移った後、若狭の武田氏旧臣は、将軍義昭を奉じて諸国を支配しようとする織田信長の支配下に入った。元亀元年(一五七〇)十月には朝倉義景の兵が若狭に侵入したため、信長方の武田氏旧臣とのあいだで合戦が続いたが、天正元年(一五七三)八月に信長が義景を滅ぼす頃までには、若狭は信長の支配に服するようになっていた(『通史編2』第四章第四節)。朝倉氏滅亡後に若狭に帰った武田元明は、朝倉氏と結んだことを理由に信長によって殺されようとしたが、旧臣の粟屋勝久と熊谷直之の嘆願により許されたという(仏国寺所蔵武田氏系図)。しかし元明が旧臣を再び従えて武田氏を再興することは許されず、武田氏旧臣は新たに入部した信長の老臣の一人である丹羽長秀に服することとされた。長秀は近江佐和山城を本拠としており、若狭に入部して城や城下町を建設したわけではないが、武田氏旧臣など若狭の国侍を与力として軍事的に指揮する権限を信長より認められていた。天正三年七月に在洛している武田元明・逸見昌経・粟屋勝久・熊谷伝左衛門・山県下野・内藤筑前・白井・松宮・畑田の各氏は「若狭衆」と称されており、この若狭衆は長秀の指揮のもとに同六年六月の播磨神吉城攻撃に参加している(『信長公記』)。したがって丹羽長秀は越前で柴田勝家が占めていたような地位を若狭においてもっていたといえる。 |