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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      城下町勝山の形成
天正三年以降現在の勝山市域の支配に当たっていたのは誰か明らかでないが、滝波川上流・野津俣川上流ではまだ一向一揆が勢力を保持していた。柴田勝家は一族の柴田義宣に命じてこの方面の一向一揆を攻撃させたが、天正五年十一月に義宣は谷城の一揆攻撃中に討死したと伝えられる。そこで柴田勝安(勝政、佐久間盛政の弟、柴田義宣養子)が跡を継ぎ、天正七年にはこの方面の一揆をほぼ鎮圧したので、翌八年に袋田村に城を築いたという(『福井県大野郡誌』)。袋田村は戦国期の天文八年(一五三九)に町屋敷を示す「カリ(仮)屋」が見え、また鍛冶職人の負担する年貢としての鍬も知られるから、勝安築城以前より町としての様相を示していたものと思われる(白山神社文書 資7)。勝安の城下町建設を示す史料は伝わっておらず、その治政としては天正十年に畔川など三か所の新田を台所入(直轄地)としたが、農民が夫役賦課に反対して逃散したため、翌年には夫役を免除して還住を図っているのが知られるだけである(久保長右衛門家文書 資7)。乏しい史料からの推測ではあるが、勝安が勝山盆地の北袋の地を支配するようになったことは認められるであろう。

写真20 柴田義宣の墓(勝山市北谷)
 



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