目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      奥越の支配
 信長は大野郡の三分の二を金森長近に、三分の一を原政茂に与えて支配させた。大野郡は隣国の加賀一向一揆の影響の強い地域であり、年未詳ながら岩佐重介が、大納を攻めた山中五か村の一揆を撃退し、長近から感状を与えられているのは(小嶋吉右衛門家文書 資7)、この加賀の一揆の侵入を物語るものであろう。長近が折立称名寺門徒を武装させ、また、芦見谷の七か村の本願寺門徒を高田派に転宗させて請文を徴しているのも(稱名寺文書 資7)、大野郡の野津俣川流域から大日峠を越えて後の加賀国にまで広がる「越前国北袋」の一向一揆の勢力がまだ盛んであったことに対する警戒心の表れとみることができる(長勝寺文書 資7、『加能古文書』所収新丸村文書)。
 大野郡を金森長近と原政茂がどのように分割して支配したのかについては、明確に知りがたい。大野郡の鍛冶座の権利を保証する天正三年十二月の文書はこの両人がそれぞれ出しているから、郡全体に関することは両人の承認が必要であったことがわかる(てっぽうや文書 資7)。四月二十九日付の文書で原政茂は鍬掛の洪泉寺に対し「興泉寺領」二一石余の三分の一を新寄進として安堵している(洞雲寺文書 資7)。洪泉寺の字を誤っているところからして、この文書は天正四年のものと考えられるが、この時にはまだ長近と政茂とのあいだで具体的に所領の分割が行われておらず、政茂は郡内三分の一支配の原則を洪泉寺領に当てはめて寺領の三分の一を抽象的に保証したものとみられる。翌五年六月になると政茂は「鍬懸村」にある洪泉寺領を新寄進地としており(洪泉寺文書 資7)、所領の分割が行われたことが推測される。
 今日残されている文書から判断すると、長近は大野盆地・大野町・折立郷・芦見川流域山間部・穴間郷を支配していたことがわかり、その内容も給人への指示、寺社に対する禁制の発給、所領の安堵、本願寺門徒に対する転派の命令などが知られる。これに対し政茂は右に述べた鍬掛村に所領を持っていたこと、およびこの地の洪泉寺に禁制を下しているほかは、その支配についてほとんど知ることができない。今日の勝山市域についての文書が欠けているため断言はできないけれども、政茂は府中三人衆のなかの不破光治と共通する性格をもっていたように思われる。
 大野の町は戦国時代より史料に現れ、郡司朝倉景鏡や一向一揆の杉浦壱岐は、この町の亥山城(居山城・土橋城、現在の日吉神社境内)を居城としていた。亥山城付近に現在も古町・土居などの小字名が残るのは、古い城下町の名残であろう。長近も大野の町を本拠としたが、城は亀山に築き、この町を城下町として整備した。天正六年九月に長近は時宗恵光寺敷地として「町裏惣並」のほかに東西五九間・南北四六間を与えている(恵光寺文書 資7)。この「町裏惣並」の意味は正確には捉えがたいが、城下町の商人・職人に屋敷を配分する時に「惣並」という一定の基準があったことを示し、城下町建設は一定の計画に基づいて行われたものと推測される。天正三年十二月に長近や政茂は大野郡中の鍛冶座の特権を承認し、鎌・鍬・釘の行商を禁止しているが、この行商禁止は鍛冶職人の町における集住を前提としているものと考えられ、長近家臣の遠藤盛枝は、「当町鍛冶衆」が他所へ移住しないようにとの長近の命令を鍛冶衆の指導者土蔵惣左衛門に伝えている(てっぽうや文書 資7)。



目次へ  前ページへ  次ページへ