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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      代官と下代
 代官は先述の幕府領のほか、どの藩にもたいていみられる職名で、下代(手代)を従えて直接農民支配に当たった。だいたい郡単位に置かれることが多く、小浜藩でも各郡に二人ずつ配置されており、初期には町人代官も任じられている(『小浜市史』通史編上巻)。ところが福井藩では郡ごとに置かれることはなく、他藩とは大きく異なっているので、ここでも福井藩について述べることにする。
 秀康の給帳には「御代官」として一五人の名がみえ、そのうち確かな史料で確認しうる者一二人、逆に給帳にはみえないが、明らかに代官とみなされる者が数名はいる。先に述べたように、秀康と忠直の知行宛行状の村付けでは、肩書に郡名が用いられることがなく、領名が使用されていた。いまのところ城下周辺の北庄廻のほか一一領しか確認できないが、おそらくこの上領や下領の下に置かれた「領」に対応して、代官が置かれたと考えられるのである。
 それは同じ年に、一郡に複数の代官がみられること、同じことであるが同一人物が複数の郡の代官になっていることから、郡単位ではなかったことは確かである。また「今庄領」の山についての訴状に、「今庄之御代官」「今庄代官殿」とあることも手掛りとなろう。秀康と忠直の宛行状で、坂井郡に丸岡領・三国領・西方領、足羽郡に東郷領・西方領・府中領、吉田郡に志比領・藤島領・丸岡領・三国領、大野郡に大野領・勝山領・府中領など、郡内にいくつかの「領」が混在していることも知られる。
 ただ、この領には了解しがたいことも少なくない。例えば、宛行状の領は知行地であるが、この時期の代官は原則として蔵入地を支配したのである。忠昌の宛行状から郡名が用いられるが、代官の支配単位としての領のみ継承されたとみられる。表46の代官は一四人であるが、半知直後には一二領(「御用諸式目  」 資3)になっており、領知高は四七万石と二五万石であるから構成は異なっていたはずである。
 代官の下役が下代であり、年貢皆済状や小物成請取状を発給していることが知られる。現地の有力者をもって充てることもあり、それだけに非法も多かったようである。敦賀郡の百姓は、下代のなかに歳暮を強要したり、「あいの銀」すなわち上前をはねる者がいること(澤本弥太夫家文書 資8)、塩年貢を多く賦課する者がおり、しかもそれを「忠節」とする代官がいること(中山正彌家文書 資8)、年貢収納に当たって升を揺さぶり、さらに米を升に山盛りにして取る者がいることなどを訴えていることが知られる(刀根春次郎家文書)。
 寛永元年八月、年寄三人の名で代官へ宛てて出された「定」は、下代を含めた代官の職分と、よるべき規範を集成したものとして重要である(「家譜」)。代官には「知行取代官」と「扶持取代官」があった(前掲表46)。下代は代官が知行取の場合は支配高二五〇〇石に一人、扶持米取の場合は二〇〇〇石に一人とし、一人について一三石三人扶持を下行するものと定められた。そして高札の趣旨を徹底させること、年貢を奸曲なきように収納すること、庄屋の小百姓に対する非分を取り締まること、田畑新開の見立てに手抜かりがあってはならないこと、百姓を欠落させぬこと、諸代官が互いに連絡を取り合い年貢に不公平のないようにすること、とはいえいくら藩のためと思っても「悪才覚」をしてはならないとある。また出郡にさいしては「自分賄」(自弁)を宗として百姓に迷惑をかけぬこと、用事もないのに村々に下代を居住させぬことともいっている。
 代官が「百姓役家」一軒につき、一年に一日ずつ「自分ニ」すなわち私用に「召仕」うことが認められていることも注目される。もし百姓に差支えでもあれば、一日銀五分ずつ収納することが認められていた。これらは代官や下代の非分に対応するためでもあった。
 なお、小浜藩になる前の敦賀郡は、湊町としての重要性と「北庄御用肴」などを負担したことなどからみて蔵入地が置かれ、久世騒動で廃されるまで清水孝正の知行地もあったとみられるが、この後のことは明らかでない。秀康の給帳には「敦賀御代官」は一人しかみえないが、慶長十四年には代官二人が知られる(道川文書 資8、竹内洲嶺家文書)。いまのところ敦賀郡に領が置かれた徴証はなく、敦賀だけ例外的に郡単位の支配が行われたのかもしれない。また、「寛文雑記」の町奉行が正しいとすれば、町場に町奉行、村方には代官が置かれたとも考えられる。



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