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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    四 農民支配の機構
      「壱万石の組頭」と「百姓代官」
 農民を支配する場合、数村から二、三〇か村ほどを組み合わせて一組とし、ここに百姓身分の役人を置くことがみられた。これを普通大庄屋と称し、組下村々のもめごとや、他組との争いなどの調停を任務とした。藩によって呼称も違い、幕府領や小笠原氏勝山藩・鯖江藩の大庄屋、土井氏大野藩の郷組頭、有馬氏丸岡藩の組頭などがあり、小浜藩のようにごく初期を除いてこれに相当する役人を置かない藩もみられる。
 福井藩では初め組頭といい、先に触れたように忠直の時には置かれていたことは明らかであるが、はっきりしたことはわからない。前項でみた「定」に「壱万石与」(「家譜」)なる語があり、寛永二年の「条々」には「壱万石之与頭」(「隆芳院様御代御掟法度書之写」松平文庫)ともある。また寛文五年、今立郡岩本村の惣百姓の請書にも「壱万石之与頭」がみられる(大滝神社文書中の川崎家文書 資6)。さらに寛永十五年には組頭大連彦兵衛の組下一六村もみられる(「大連家秘簿」 資4)。ただし、「壱万石之与頭」の語は、承応二年、延宝三年(一六七五)の「条々」にもみられるのであり(「家譜」)、なお検討せねばならない部分も残っているが、忠昌の頃にはある程度固まりつつあったのかもしれない。
 寛文八年それまでの代官が廃され、組頭七三人をもって新たに「百姓代官」とした。その理由は、「百姓共費え之儀少々これある」というにあり、地方知行制もいったんやめて、「御蔵給所共ニ百姓代官」としたのである(「家譜」)。ただ、実際に残る地方の史料にはいずれも「百姓組頭」(堀田五左衛門家文書 資6、上田重兵衛家文書 資7など)とあって、「百姓代官」の語はいまのところみることができない。しかし、「百姓代官」は明らかにそれまでの代官とは違い、また延宝五年「百姓代官」を廃止したあとの組頭とも相違している。したがってそれらと区別するためにも、歴史用語としては「百姓代官」として構わないと思われるので、本書でも通例に任せて百姓代官と称することにする。
 この時の百姓代官を書き上げたとみられる「越前組頭切村付高付覚帳」(内藤源太郎家文書)と、このうち足羽郡・坂井郡・吉田郡の部分を地図中に落とした図12(図12 足羽・吉田・坂井郡の百姓代官支配地域)によると、府中本多氏の知行所や福井城下・寺社領を除く四〇万三一七〇石余が、七一組に分けられている。組ごとの石高は最高一万三〇〇〇石余、最低一四七石余であるが、平均五六〇〇石余、五〇〇〇石以上が四七組である。組下村数は四村から三三村で平均一一村、二郡にまたがる組も一〇組ある。石高と村数は村高によるとはいえ、図12にみられるように、同じ組が飛び離れて存在するなどかなり錯綜した構成になっている。また、一組に二、三人の組頭が置かれたり、居村以外の組頭になったり、一村に二人の組頭もみられる。
 百姓代官については第三章第二節で詳しく述べるが、延宝五年知行所を戻した時に廃される。この時、寛文八年には朝日村助左衛門と大谷村甚右衛門が組頭であった大野郡清兵衛組の庄屋が連署して、百姓代官の存続を願っていることが注目される(平野治右衛門家文書 資7)。



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